ぴかぴかマグパイ

とりとめのない日記

「天保十二年のシェイクスピア」観ました

天保十二年のシェイクスピアがとても面白ったという覚え書き。一度しか見てないので記憶違いや見当違いなこと言ってるかもしれないけれど、めちゃくちゃ楽しんだという事は確かです。


私もシェイクスピア好きの端くれなので、シェイクスピア全作品を盛り込んだ劇!と聞いて興味を持ち、観劇に。

終演後、「観に来てよかった〜〜〜!!!!!!!!!!!」と踊り出しそうなのをすんでのところで堪えながらパンフレットを買って帰りました。


目次

 

天保十二年のシェイクスピア

f:id:magpie00:20200215141041j:image

公式サイト:日生劇場 絢爛豪華 祝祭音楽劇『天保十二年のシェイクスピア』


天保十二年のシェイクスピアとは、井上ひさしの傑作戯曲であり、江戸時代の人気講談天保水滸伝を父、シェイクスピアの全作品を母として生まれた物語。らしい。

 


二軒の旅籠屋(はたごや)を取り仕切る老人が、自分の後継を決めるにあたって三人の娘に父に対する愛情を問う……というリア王的な構図から始まる。

おべっかの言えない末娘は家を追い出され、対立する姉二人(お里、お文)のところに'佐渡の三世次'(さどのみよじ)というリチャード三世的な人物が訪れ波乱を起こす。

ハムレットマクベスロミオとジュリエットをはじめシェイクスピア全作のエッセンスを取り入れながら進む劇。

シェイクスピアの作品が大好き、という気持ちを全肯定されるような、シェイクスピアにわかファンながらとても楽しい舞台だった。

 


佐渡の三世次(高橋一生)

 


高橋一生高橋一生さんがすごい。

役者さんに疎いので、「なんとなく知ってるなあ……」くらいの気持ちで見に行ったんだけど、高橋一生の魅力、色気にグッサリと刺された心地です。

 


そもそも私はシェイクスピア作品の'悪役'が好きだ。グロスタ公リチャード*1(「ヘンリー六世第三部」「リチャード三世」)やイアーゴー(「オセロー 」)をはじめ、エドマンド(「リア王」)、アントーニオ(「テンペスト」)、エアロン(「タイタス ・アンドロニカス」)……彼らのむき出しの欲望、それを描写する言葉の強さ、そして内に秘める人間味。私はシェイクスピア劇の悪役に多大なる魅力を感じ、彼らに強く惹かれる。

 


さてそんな中で「天保十二年のシェイクスピア」に登場する佐渡の三世次(演:高橋一生)、彼はグロスタ公リチャードとイアーゴーの遺伝子を色濃く受け継いでいる。見たらわかる好きなやつやん!!

 


三世次はその醜い容貌のせいで、平和な世にも戦の世にも生きづらい。女郎を買おうとしても顔を見られるなり悲鳴を上げられる始末。

「きれいはきたない、きたないはきれい」「愛するは憎む、憎むは愛する」「行くは行かぬ、行かぬは行く」「相対化しておれは初めて行く(生く?)」

マクベス」の魔女を彷彿させる台詞を歌に歌うさまがエロティックで良い。

 


またも「マクベス」の魔女の要素を持つ'清滝の老婆'に「おまえは代官にまで上り詰める」という予言を受け、三世次はお文の勢力に取り入って漁夫の利を得ようと企む。

 


グロスタ公リチャードは醜い容姿の代わりに戦で功績を立てた男だが、三世次にはその力すらない。あるのは巧みな言葉だけ。

「ことばには どくがある」

「女房を愛している亭主にたったひとこと囁く……とたんにすべては変る 亭主は女房の首しめる」

イアーゴーを思わせる歌を歌い、三世次はお文の旅籠屋の仲間入りを果たす。

お文一派が滅亡したのち、三世次はイアーゴーのごとく立ち回ってお里の一派も滅ぼし、自分の兄貴分の男も陥れると、彼は旅籠屋の大将となった。

 


さて清滝の老婆が予言したことには、「おまえは老中になることだって夢ではない、二人で一人の女を愛しさえしなければ。ただし自分で自分を殺さない限り、運命もおまえを押し潰すことはできないだろう」

三世次は二人で一人の女、「間違いの喜劇」の双子の要素を持つお光とおさちに惚れてしまう。

 


自分を受け入れぬお光を殺してしまったあと、三世次は代官を殺しその妻のおさちを口説きにかかる。アン夫人を口説くグロスタ公リチャードのごとくおさちに言いより、おさちは三世次に突き立てた刀を落としてしまう。

三世次は「おれは自分が思うより醜い男ではないのかもしれない」とおどけてみせる。

しかしおさちは三世次に屈したのではなく、「誰よりも醜いおまえの下手人にはなりたくなかった」と言う。

おさちはオランダから取り寄せたという「」を使い、三世次に自身の醜さを見せつける。その鏡に映った自分の姿を見て、三世次は絶望する。舞台の背後にも一面に鏡が張られ、今まで死んでいった者達の亡霊たちも現れる。三世次は堪らず自分の映った鏡を割り、おさちはその鏡の破片で自分の喉を切り自殺する。

間をおかず、代官三世次の悪政に反感を持った百姓たちが館に乗り込んできて、三世次は百姓たちの隊長を斬り殺す。


ところで、三世次は百姓の出である。


「鏡に写ったおれをおれが殺し、百姓を百姓であったおれが殺した」

つまり、三世次は「自分で自分を殺」してしまった。清滝の老婆が予言した破滅が迫る。

館の屋根に追い詰められた三世次は、「馬をくれ。この世から抜け出すには天馬がいる」と言い、屋根から落ち、重い衝撃音が辺りに響いて物語は終わる。

「墓場からのエピローグ」として、三角巾を被り幽霊に扮した登場人物たちが勢揃いしてカーテンコール。最期の場面から衣装を変えて白い着物に身を包んだ三世次が良い。

 


三世次の求めたもの

 


パンフレットの座談会にて、高橋さんは三世次を「一直線に死に向かっている人」「生き切って死ぬために、常に死に場所を求めている人」と語っていた。

 


三世次は顔に火傷があり、桶を足に落としたせいで片足が不自由。平和な世でも戦の中でも生きていけぬと思う原因であるその身体的特徴は、三世次ではなく彼が生み落とされた環境に責任があるものである。その理不尽のせいで彼は社会に溶け込めない。彼は社会に復讐をすることで、深く刻まれた疎外感の慰みにしようとしているのだろうか。

 

 

 

三世次はお光を殺せとお里に命じられた時、それをためらい、なんやかやあって結局お光が生き延びたとき、その運命のいたずらに歓喜した。

旅籠屋を手に入れた三世次は、お光を欲すれば破滅すると予言されていたにも関わらず、お光を手に入れようとする。

権力者たちを口先一つで破滅させたことで自分の醜さを生んだ社会への憎しみを発散させた彼は、愛によって孤独感を埋めようとしたのだろうか。

しかしお光に夜這いを仕掛けそれを拒絶された時、「愛していた分だけ憎しみも大きいぞ」と、彼はお光を殺し、その死体を犯してしまう。


肉欲で三世次の疎外感は埋まったのだろうか? 私は違うと思った。


三世次はおさちを口説き自分の妻にするのだが、三世次はおさちの体には手を出さないのである。ある日おさちに話しかれられて、三世次は「とうとうその気になったか」と嬉しがる。その気になれば力ずくで犯すこともできるだろうに、三世次はおさちが合意するのを待っていた。

自分を拒絶したお光の死体を犯した時、そこに感じたのは満足感ではなく空虚だったのではないか?

三世次はおさちを口説くことに成功した*2とき、「おれは自分が思うより醜い男ではないのかもしれない」と言った。社会の底辺にいたのが今や代官にまで成り上がったことで、三世次には多少なりとも自己肯定感が芽生え、誰かに愛されることを願ったのではないだろうか。

 


元を辿れば辛い環境のせいで怪物になってしまった、そうならざるを得なかった男。心を満たすなにかを欲するさまにはどこか哀れみを誘われる。

 


しかし、そこで三世次には受け入れ難い真実が明かされる。おさちは三世次を愛してはいないのである。

この世でもっとも醜い男だと三世次を罵り、おさちは三世次が初めて目にするであろう鏡を突きつける。

 


三世次は鏡を見て、それに写った自分自身を見た途端に悲鳴を上げる。

そこに見たのは自身の外見の醜さだけではなく、今まで犯してきた罪の数々。他者を自分よりも醜く思わせることで相対的に自分の価値を上げ権力の椅子取りゲームに勝ってきた男は、鏡に写された自身の絶対的な醜さに打ちのめされる。自分が犯した罪は誰よりも自分自身がよく知っていて、良心となって三世次を押し潰す。

 


他者を蹴落としおさちを口説くことで芽生えかけた自己肯定感は塵と消え、巨大な自己嫌悪がふたたび戻ってきたのだろうか。

片足が不自由な彼が「馬をくれ」と言うのは切ない。馬があれば――健常な体があれば、この世でも息ができただろうか。この世から抜け出すための天馬をくれ、という願いとは裏腹に、彼は屋根の上から真っ逆さまに地に堕ちる。

 


イアーゴーやリチャード三世のような悪辣さと哀れさを持つ、とても魅力的な登場人物だった。ありがとうございました。

 

 

 

シェイクスピアファンとして

 


天保十二年のシェイクスピア」の父たる「天保水滸伝」はほとんどまったく知識がなかったのだが、母たるシェイクスピア作品は多少知っているので、そういう意味でもこの作品はとても楽しかった。

 


リア王」「マクベス」「ハムレット」「ロミオとジュリエット」といった有名どころはもちろん、個人的には「間違いの喜劇」が大々的に劇に盛り込まれていたのが楽しかった。

読んだことのない作品もまだまだあるので、「このシーンで出てきたのはシェイクスピアのどの作品だろう?」と知りたくなったし、パンフレットでは各シーンに盛り込まれているシェイクスピア作品のリストが掲載されていたので参考になった。次に読むものの参考に。

 


「To be, or not to be」の歴代の訳を紹介するシーンは遊び心もたっぷりで、声を出して笑ってしまった。

 


パンフレットでは役者さん方が好きなシェイクスピアの作品や登場人物について語っていて、シェイクスピアへの愛を感じるとても幸せな空間だった。

 


あとこの舞台、字幕で歌詞を表示してくれたのが地味にとてもありがたかったな。歌なうえに時代劇で耳慣れない言葉も多いため、歌詞のおかげでストレスフリーで見られた。

 

 

 

秋にはめでたくこの舞台の円盤が発売されるらしい。

春からの新生活を控えいま最大級にお金が無く再度劇場に行くことが難しいので(悔しい……)、せめて円盤は買おうかなと思う。

 


出会えて良かったなと思う作品だった。

 

*1:'リチャード三世'と呼ぶと作品名「リチャード三世」と被って紛らわしいので、この記事では'グロスタ公リチャード'と呼ぶ

*2:口説けたと三世次が勘違いしているに過ぎないのだが