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とりとめのない日記

「天保十二年のシェイクスピア」佐渡の三世次について考える

先日鑑賞した劇「天保十二年のシェイクスピア」がとても面白かった!

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舞台を観てきた興奮のままに、すでに一度感想を書いた。


上に貼った記事でも高橋一生演じる佐渡の三世次(さどのみよじ)の話が多くなったんだけど、彼についてさらに考えたくなったので、原作の戯曲『天保十二年のシェイクスピア』(井上ひさし)を読むことにした。

通販等で手に入れるのが難しそうだったので、思い切って国立国会図書館を利用してみることに。(人生初利用!)

戯曲を読んで、改めて物語……主に佐渡の三世次に思いを巡らせたところ、色々思うところがありすぎて感情が溢れてしまったので、またブログにまとめることにした。

 

2020年の舞台について、戯曲を補助として使いながらという感じで佐渡の三世次についての自解釈と感想をつらつらと書いていきます。

 

目次

 

 

佐渡の三世次とリチャード三世

 

天保十二年のシェイクスピア』は、シェイクスピアの劇全37作品の要素を盛り込んでいる。

リア王』や『ロミオとジュリエット』などのように、明確に筋書きが利用されているものもあれば、『ヴェニスの商人』のように一言だけの言及で済んでいるものもあり、その要素の取り入れ方は様々だが。

 

さて、そんな中で佐渡の三世次はリチャード三世(『リチャード三世』)やイアーゴー(『オセロー』)といった、シェイクスピア劇の複数の'悪役'の要素が混ぜ込まれたキャラクターとなっている。その中でも、私が把握できる範囲で*1一番重要、三世次の根幹に強く影響を与えているのはリチャード三世の要素だと思う。

 

リチャード三世は、せむしで手足の長さが不揃い、足を引きずって歩く醜い男。イングランドの王座を獲得するために兄弟、政敵、腹心、女子供をも手にかけた大悪党*2

……大悪党なのだが、彼は生まれついての悪党ではない。生まれ持った醜さのせいで、実の母をはじめとして誰からも愛されなかったから次第に心が歪んでしまった、愛を得られなかった哀れな怪物というのが私の解釈するところのリチャード三世だ。

 

そういう情報をヒントにして「天保十二年のシェイクスピア」を見ていると、佐渡の三世次にも何かそういった、「怪物になった男」という側面を感じてしまう。

 

高橋一生さんの三世次観

 

2020年版舞台のパンフレットには高橋一生さん・浦井健治さん(王次役)・唯月ふうかさん(お光/おさち役)の座談会が収録されていて、そこで一生さんが三世次について話している。ありがたい。

佐渡の三世次について考えるにあたって、演者さんの話も参考にさせてもらおうと思う。

 

一生さんいわく、三世次は上に登っていきたい人というよりも、一直線に死に向かっている人。生き切って死ぬために、常に死に場所を求めている人。

もともと自分の存在自体が悲劇なのだから、この悲劇をとことん利用して、どれだけ世界に復讐できるかを試している人。

 

 

なるほどなあ。

三世次は権力を欲しているというより、ただ生きようとしているだけなのではないか。姿が醜いうえに無宿者という絶対的弱者であるのを、この世をかき乱して価値観をごちゃまぜにすることで、相対的に浮き上がろうとしている。

彼は物語の中で悪徳の限りを尽くすのだが、そうでもしなければ息ができなかったのだろう。

 

本編から三世次を考える

三世次の生い立ち:三世次の求めるもの

 

さて、ここからは「天保十二年のシェイクスピア」本編に沿って考えていきたい。

 

戯曲『天保十二年のシェイクスピア』には三世次の外見についてト書きがある。

それによると、三世次は三十才そこらのせむし男。左足を軽く引きずっていて、顔の右半分は火傷の跡がてろてろと光っている。

 

三世次は初めて舞台に姿を表したとき、まず自身の生い立ちを語る。

 

三世次の父親はかつて清滝村で小前百姓(土地を所有している百姓)をしていたが、饑饉(ききん)やなんやかやのせいで没落し、抱え百姓=土地を持たず、土地を借りることもできず、ただその日の稼ぎでなんとか生き延びる無宿者になってしまう。

 

突然その息子の三世次も無宿者として生まれる。

 

彼が言うには、幼い頃、橋の下のじめじめしたむしろの上に寝かせられていたせいで彼はせむしになってしまった。

十五の時に無宿人という理由で石川島*3に送られるが、そこで油鍋をかぶって顔に火傷を負う。しばらくして佐渡島に移され水替人足をやるが、そこで水桶を足に落としてしまい左足が不自由になる。

つらい仕事に耐えかねて仲間とともに島から逃げ、博打で路銀を稼ぎながらこの清滝村にやって来て、今に至る。

両親はすでに亡く、二人の妹とも幼い頃に生き別れたきり。無宿・無縁・無職の身である。

 

なかなか壮絶な人生だ。

 

この三世次の語り口から、両親への恨み……とまでいかなくとも、良くない感情が見える気がする。

三世次がせむしになったのは、幼い時の環境のせい。

三世次が無宿者になったのは、無宿者だった父親のせい。

「おかげでこのおれも親父の後を継ぐ無宿者だ」という語調が、ある種親を責めている雰囲気が出る。

 

人が生まれて最初に接するのは大概その人の親で、三世次は親からよい遺産をもらえなかった。三世次の世界に対する憎しみは、彼の両親に端を発するものなのだろう。

 

 

しかし、三世次は両親に対して憎しみとは相反する感情も抱いているように見えるのがまた、味わい深い。

 

佐渡ヶ島から逃げ出した後、三世次はいつのまにか清滝村へたどり着くのだが、それについて三世次はこう語る。

 

故郷へ寄るようでは、(略)おれもずいぶん気弱になっているんだな。

 

三世次はなぜ故郷の清滝村に帰ってきたのだろう?

前述のとおり身寄りの無い三世次は、たとえ故郷に帰ってきたところで何かツテがある訳でもない。

それでも清滝に寄ってしまったのは、そこが彼の故郷だからという感傷的な理由に他ならないのではないか。

自分は無宿無縁だと分かってるはずなのに、もういない家族の面影を求めて故郷に帰ってきてしまう、それを三世次は「ずいぶん気弱になっている」と語ったのではないか。

 

三世次は、自分の身内、自分を愛してくれる人間というものを、心の底では求めているのかもしれない。

 

 

きたないはきれい:三世次の戦法

 

三世次は清滝に着いて、紋太・花平両家の争いのことを聞くと、双方のいがみ合いを募らせることを思い立つ。漁夫の利によってその身が「どこかの浅瀬へ浮びあがる」ことを期待して。

 

その前祝いとして三世次は女郎を買うことにするのだが、女郎が三世次の醜悪な姿を見てひるむと、三世次はこれに平手打ちをする。(というト書きがある)

 

三世次の醜さは生きていく上で大きなハンデであり、三世次はそれに強いコンプレックスを抱いているのだろう。

自分が醜いと認識している三世次は、きっと自分のことが嫌いだ。

 

その後三世次は「三世次のブルース」を歌う。(余談だが、戯曲のト書きだと「詠誦(えいしょう/詩歌を声に出して読むこと)風に歌う」と書かれている。言葉を読むように歌を歌うのは、「ことば使い」の三世次らしくて良いよね)

 

だからおれは 平和も戦さも嫌いさ

平和と戦さの ごちゃまぜが好きさ

きれいはきたない きたないはきれい

平和は戦さ 戦さは平和

この混沌にしか おれは生きられぬ

すべての値打を ごちゃまぜにする

そのときはじめて おれは生きられる

すべてを相対化したとき

おれははじめて行くのだ!

 

すべての値打をごちゃまぜにしたときに初めて生きられる」とはどういう事だろうか?

 

歌に何度も出てくる「きれいはきたない きたないはきれい」というフレーズが、この歌を読み解く手掛かりになる。これはシェイクスピアの戯曲『マクベス』に出てくる有名な台詞だ。

 

このフレーズについて調べたところ、参考になる記事があった。

つまるところ、何が美しいとか何が醜いかというのは、それを見る人の視点によって変わってくるということだ。

ブタにはブタが美しく見えるし、ロバにはロバが美しく見える。

善人にとっては美しく思える行いも悪人にとっては醜い行いに見えるだろうし、逆に悪人にとって美しく見える行いは善人にとっては醜い行いとなるだろう。

価値観というのは絶対的なものではなく、移ろいやすい相対的なものである。

 

だから三世次は自分の醜さ・社会的弱さを克服するために、この世の価値観を操ろうとしているのではないか。

いま自分が社会のどん底にいるとしても、自分よりさらに貧しい存在が現れたら、相対的に自分は豊かだと言える。自分より醜い者があれば、自分はそれよりも美しいと言うことができる。

「すべてを相対化したとき/おれははじめて行くのだ!」とは、そういうことではないだろうか。

 

三世次はこの世をかき乱すことで、はじめて生を得ようとしているのだろう。

 

 

女と三世次:三世次の自己評価

 

三世次は清滝の老婆に預言を受けるのだが、「女が鬼門だ」と言われたときにそれを笑う。

女? このおれがか? 傴僂(せむし)で、足が悪くて、顔に火傷のある、このおれが? あんまり笑わせちゃいけねぇぜ。

このセリフから伺える三世次の心境がつらい。

自分が醜いと認識している彼は、自分が女性から愛されることを諦めているのだ。

 

前述したように、三世次は自分の家族……自分を愛してくれる存在を欲している。しかし、三世次の低い低い自己評価がそれを諦めさせている。

 

話が進むにつれ、彼は権力を手に入れることによって、自分も誰かに愛されることができるかもしれないと思い始めるのだが……その話はまた後ほど。

 

 

余談①エモ

三世次がお里と幕兵衛の一派の前に初めて姿を現す時、「朝の光を背にしてせむし男が立っている」みたいなト書きがあってなんだか良いなと思った。それだけです。

 

余談②ふくろう

三世次がお里と幕兵衛の一派に仲間入りしようと試みる場面で、幕兵衛は三世次のことを「あの男は梟(ふくろう)のように暗やみでも見える目も持っているらしい」と言う。

ふくろうと三世次の関連付けで、先に挙げたリチャード三世のことを思い出した。

リチャード三世は、戯曲『リチャード三世』の前日譚にあたる『ヘンリー六世 第三部』にも登場するのだが、そこで敵であるヘンリー六世に「お前が生まれた時にはふくろうが鳴いた、不吉のしるしだ。」という風な事を言われている。

シェイクスピア劇においてふくろうは不吉のサインなのだろうけど、幕兵衛のこの台詞を聞いてそんなことを思い出したのだった。

 

余談③王次

天保〜』のト書きによると王次って18歳なんですね!? 若いな〜。浦井さん、とてもかっこよかった。

王次はにせ亡霊から父親の死の真相を聞くと、

「ものには二面、表と裏があるんだな。表がほんとうか、裏がほんとうか、おれにはもう見分けがつかなくなっちまった。」

と言う。自分には優しい母は実は悪党で、自分には頼もしい叔父も悪党だった。視点によってものごとの評価が変わる、価値観が揺るがされるのは、三世次の「きれいはきたない」に通ずるところだなあ、と戯曲を読んでいて思った。

 

 

三世次とお光①:嫉妬

余談が長くなった。失礼。

さて、女性から愛されることを諦めている三世次でも、お光に恋をしてしまう。

 

「王次よ、どうしてあんたは王次なの」の場面。

2020年版舞台では、王次とお光が恋に落ちるのを屋根の上から三世次が眺めている。(戯曲だとこの場面に三世次は不在で、イチャつき始めた王次とお光を手下たちが殺そうとし、幕兵衛たちが登場してそれを止めたときに、やっと三世次が登場する)

三世次が惚れているお光が王次とイチャつくのを、わざわざ三世次に見せつけるのである。演出家は人の心が無いのか。(あるよ?)

 

代官が到着したとこで両家が一時停戦し、王次とお光がくっつくと、三世次は一人になった舞台上でこんなことを言う。

 

おれの書いた筋書どおりに王次は脳天気になった。そこまではよかったがその後はどうも万事がぐりはま。それというのもどいつもこいつも阿呆なせいだぜ。ちっ、今年は阿呆の当り年かね。阿呆どもの平和なぞ犬に喰われてくたばるがいい!

 

「三世次の書いた筋書」とは、どこまでが筋書だったのだろう?

三世次はにせの亡霊を立てて王次に父の死の真相を知らせた。だが、王次とお光の恋は想定外のことだったのではないか?(それも予想どおりだったらもうすごいよおまえ)

お光は王次と出会う前に、お里の一派に会っているはず。つまり、そこで三世次にも会っていた可能性がある。三世次はそのとき、お光に惚れてしまったのではないか?

 

とすると、自分の惚れた女が他の男に惚れ、あまつさえイチャイチャしているのを見るのはどんな気持ちだったのだろうか。(演出家人の心がない) 引用した台詞の後半は、一時停戦の両家を指してもいるのだろうが、お光と王次の恋をねたんでいるようにも聞こえはしまいか。

 

地獄の片思いの幕開けである。

 

 

三世次とお光②:本気

 

三世次は、お里にお光*4殺しを命じられるが、そこで三世次が躊躇するとお里に恋心を勘づかれてしまう。

 

お里:まさかおまえそんな躰で、そんな顔で、お光に岡惚れしてるんじゃないだろうね。

三世次:うぐ……

 

「ことば使い」であるはずの三世次が、恋心を指摘されてうめき声しか出すことができない。

そんな醜い容姿のくせに女に愛されることを望んでいるのかというのは、三世次本人が自分に対して一番強く思っているだろう。それは、他人には一番突かれたくない弱点だったのではないだろうか。

 

お里:(略)いくらなんでも好きな女を殺れとは、あたしにゃ言えない。いいともさ、そんならあたしがお光におまえの気持ちを伝えてやろうか。

 

  三世次はお里をまともに見据える。いまにも血が吹き出しそうな恨みのこもった眼。やがて三世次は首を横に何度も振る。

 

三世次:それだけはよしておくんなさい。

お里:本気でお光に惚れてるんだね。

 

お光に恋心を伝えてやろうか、という言葉に、三世次はまたも沈黙する。ことば使いらしくもない。

問題なのはこのト書き、ト書きである。

お光に恋心を知られたとして、返事はわかりきっている。しかし、本気で惚れた女から投げつけられる拒絶と侮蔑の言葉は、きっと三世次の心を粉々に砕いてしまうだろう。

お里の言葉は三世次の一番いやな所を突いている。三世次は得意のことばでかわすこともできず、沈黙し、ただ恨みのこもった目で見ることしかできない。

 

三世次〜(涙)

 

 

三世次がお光(おさち)殺しに失敗したとき、三世次は次の台詞を言う。

 

このおれがどじを踏んだのか……。(ぐいっと宙を睨み)ちがう、運命がお文とお光の場所を入れかえてしまったのだ。(略)運命よ、うめえ細工をありがとうよ。

 

お光(おさちだけど)が生き延びてくれたのが嬉しい三世次は、ここでやっと言葉遊びをして、ことば使いとしての力を取り戻したのだろうか……

 

三世次〜〜(涙)

 

 

三世次とお光③:わたし殺し脈無地獄

 

王次が死んだあと、三世次の脈なし片思い記が続く。

 

三世次がお光に惚れていることは、花平一家の台所の女たちのうわさになっている。この時点でつらい。

三世次は暇さえあればお光(王次が死んで塞ぎ込んでいる)の離れのまわりをうろつくのだが、お光は三世次の姿を見ると障子を閉め立ててしまうのだ。つらいポイント。

そしてそれを幕兵衛に指摘されると、三世次は「(苦笑して)へえ、まあこんなできそこないの恰好をしてますんでね、どなたにも嫌われます。」と言う。つらいポイントのバーゲンセールか。

王次が忘れられないと言うお光に三世次が慰めの言葉をかけると、「お光は露骨にいやな顔になり、三世次に背を向ける」というト書き。

幕兵衛が投げたお光の櫛を三世次が拾いにいこうとすると、お光は「いいよ。自分で拾うから。」と一蹴する始末。地獄か。ここは地獄なのか。

 

本気で好きな女から嫌悪を向けられる日々で、三世次の中では自己嫌悪が募っていったのではないだろうか。

 

ここで興味深いのが、この後の清滝の老婆との再会である。

再会した老婆は「自分で自分を殺さないかぎり」運命が三世次を押し潰すことはないと預言をする。

しかし、このときの老婆は三世次以外には見えていないのだ。

 

普通に考えればそれは老婆の神通力によるものなのだろうが、もしかするとこのときの老婆が、三世次の幻覚であった可能性も考えられないだろうか。

三世次の中のもうひとりの自分、三世次の自覚できない深層心理が、老婆の形となって三世次の目に映ったのだとしたら? そうすると、老婆の「自分で自分を殺さないかぎり」という言葉に違う意味が見出せはしないか。

するなと言われたらしたくなるのが人間の性だ。

自分で自分を殺さないかぎり」という言葉には、お光に嫌悪を向けられ続けてじわじわと膨れ上がった三世次の自己嫌悪、ともすれば自殺願望が表れているのではないか。

 

 

三世次とお光④:もう1枚の鏡

 

ある日三世次は、とうとうお光に夜這いをかける。

 

……戯曲を読んで衝撃的だったのだが、この場面で三世次、自分のいちもつが立派であることを生々しく言葉で説明するのだ。(2020年版舞台では言ってたっけ…………??)

 

読んでしばらく衝撃を受けてたのだけど、冷静に考えると切ない台詞に聞こえてくる。「おまえはおれの躰が醜いできそこないだと思ってるだろうが、おれの躰だって捨てたもんじゃないんだぜ」とお光に訴えているようでなんだか泣ける。

 

しかし、前項の脈無地獄のあとで受け入れてもらえるはずがなかったのである。

 

お光:な、なにをするの!

三世次:好きなんだよ、お光。

お光:おどき、せむし!

三世次:こんなときに月並みなことをいうようだが、いいじゃねえか、使って減るもんでもなし……

お光:けだもの!

三世次:け、けだもの?

お光は短刀を手に取る。

お光:そうだよ、おまえはけだものさ!

 

  お光、三世次の瘤(こぶ)に短刀を突き立てる。(略)

 

三世次:いやにはっきりと、そして早く色気のねえ返事を出してくれたな。単刀直入ってのはここから来たのかね。お光、瘤をいくらつっ突かれてもこっちは平気だが、このままじゃすまされねぇ。(略)

お光:けだもの、けだもの! おまえを受け入れるぐらいなら死んだ方がましだ。

三世次:よし。それならおまえの瞼をこの短刀で永遠に縫い合せ、閉じ合わせてやるぜ。

 

「瘤をいくらつっ突かれてもこっちは平気だ」とは、文字通り「瘤を刺されても大した怪我にはならない」という意味でもあるだろうし、また「醜い容姿を罵られるのは慣れっこだ」という意味でもあるだろう。お光は三世次をせむしだと罵るだろうが、三世次は自分のあれがお光を悦ばせられるという自信がある。

だからお光に「せむし」と言われたときも平然とかわしている。

 

しかし、お光に「けだもの」と言われたとき、「け、けだもの?」と三世次はうろたえる。「せむし」と言われた時と違って三世次はおうむ返しをするに留まり、ことばを上手く扱えていない。

なぜならその言葉が、三世次の外見ではなく行動を責めているように聞こえたからではないか。お光を強姦しようとする行為、ひいては今までに成してきた悪行を責められているように聞こえたのではないだろうか。

 

のちに三世次を殺すのは、三世次自身の良心(罪悪感)に他ならない(おさちは鏡を見せることで三世次の罪悪感を呼び覚ました)。ここでの三世次の動揺は、お光の「けだもの」という言葉で、わが身を一度振り返ったからではないだろうか?

 

思い返してみれば、「間違いつづきの花の下」でお光とおさちが初めて出会ったとき、おさちはお光を見て「自分がオランダ鏡を見ているのかと思いました」というような台詞を言っていた。

この夜這いの場面でも、お光は目の前の人物にとってのとなったのかもしれない。

 

ただしこの場面での三世次の動揺は長くは続かない。

お光が「おまえはけだものさ!」と言いながら三世次のこぶを刺したことで、三世次は「けだもの」も三世次の外見(行動ではなく)を指した言葉だと解釈したのだろう。三世次は平静を取り戻したので、「単刀直入ってのは〜」とまたことばで遊び始めているのか。

結局、三世次はお光を殺してしまう。

 

三世次が鏡を見て身を滅ぼすのは、もう少しあとの話だ。

 

 

余談④続く自己嫌悪

 

三世次は、自分を拒絶したお光を殺してしまう。

初登場の場面で彼が、自分の醜さにひるんだ女郎を平手打ちするのと似ている気がした。

醜悪さゆえに自分を拒絶する女へのうらみか。

三世次は権力を手にして社会的強者になったように見えて、その中身はいまだその自己嫌悪から抜け出せていないのかもしれない。

 

 

三世次とおさち:情欲か、それとも

 

三世次は代官茂平太を殺し、その妻であるおさちを口説きにかかる。それに成功した(三世次は成功したと思っている)のを見て、三世次は「おれは自分で考えているほど醜くねぇのかもしれねえぞ」と言う。

ますます大きな権力を手にし、三世次は「三世次のブルース」で歌った価値観の破壊についに成功した、と思ったのだろう。

 

三世次はおさちを妻に迎えるのだが、その後の動向が少し奇妙なのだ。

 

おさちが三世次に姿見を見せる直前、お茶を淹れたのを見て三世次は「ひとつ屋根の下で暮らすようになって百日近いが、お茶を淹れてくれたのはこれが初めてだな」というようなことを言う。「やっとその気になったのだな」というようなことも言っている。

三世次はこれまでお光/おさちへの情欲を度々観客に吐露していたのだが、この時三世次は夫婦となったにもかかわらず、合意を得てないという理由でおさちには三ヶ月以上まったく手を出していないのである。

お光には強姦を試みたあの男が?

 

そこにはきっと三世次の心境の変化があったのだろう。

 

この記事の序盤で、三世次は自分を愛してくれる存在を求めているのだろうと書いた。三世次はお光/おさちに自分を愛してほしいと望み、彼女(ら)の愛を求めた。

三世次はお光の体を手に入れるのだが、彼はお光の死体を犯したとき、自分が求めているのは体のつながりではないと気づいたのではないだろうか。

 

三世次が求めているのは、家族のように、自分を愛してくれる存在だ。

だからおさちには無理に手を出さなかった。自分を殺さなかったおさちは自分に惚れたと信じていたし、三世次もまた、おさちを愛そうと頑張っていたのだろう。

 

三世次はおさちが自分を愛していないことを知って、ひどく動揺するのである。

おさち:あのときあなたを殺さなかったのは、あなたを好きになったからではないのです。殺す気なら殺せた――

三世次:嘘をつけ!

おさち:あなたの下手人には金輪際なりたくなかった。あなたは殺す値打もない。

三世次:……お、おさち。

もう三世次はことばを上手く扱うことができない。

そして姿見の中に自分の罪を見て、罪の意識に打ちのめされる。*5

おさちは鏡の破片で自殺するのだがこのとき、三世次がおさちの死体に駆け寄ろうとする、というト書きがあるのが泣ける。三世次はおさちを愛していたのだろうな……

 

 

鏡と抱え百姓:自己嫌悪

三世次は自分のことが嫌いなのだろう、と先に述べた。

しかし彼は価値観を揺るがし、権力を、女を手に入れることで、その巨大な自己嫌悪を少しずつ減らしていった。

だが、愛していたおさちに自分の罪を突きつけられ、結局三世次は鏡の中の自分も、かつての自分である抱え百姓も殺してしまう。

 

自己嫌悪はもう、取り返しようもなく膨らんでしまった。

 

 

三世次の最期、羽根の生えた馬

佐渡の三世次の元ネタの一つであるシェイクスピアのリチャード三世は、戦場で追い詰められた最期に「馬だ! 馬をくれ! 代わりに王国をやるぞ!(A horse! A horse! My kingdom for a horse!)」と言う。

三世次もまた、「馬だ! 馬を持ってこい! ここから、いや、この世から抜け出すには馬が、それも羽根の生えた馬が要るんだ! 持ってきてくれた者にはなにもかもやるぜ。馬だ! 天馬だ!」と言う。

 

三世次がこれまでの悪行を犯したのは、低い身分と不出来な体が原因だ。三世次は片足が不自由なのだが、乗っていける馬があれば……つまり健常な体があれば、こんな悲劇も生まれなかっただろうか。

 

また、なぜただの馬でなく天馬なのだろうか?

ここで思い出したのは、お光と恋に落ちたときの王次だった。

王次は「恋の翼」でお光の元まで飛んでいった。

 

お光と愛で結ばれた王次は、「恋の翼」で飛んだ。

お光の愛もおさちの愛も得られなかった三世次は、「羽根の生えた馬」を手に入れられず、屋根から転がり落ちて死んだ。

 

えげつない対比だ……

 

さらに2020年版の舞台では(戯曲とちがって)、三世次は王次が恋の翼で飛ぶのを見ているのである。対比のえげつなさに拍車がかかる。演出の藤田俊太郎氏は人の心が無いのか。(あります*6

 

 

佐渡の三世次は生まれついての極悪人ではなく、ただ愛を求めた、生きようとした男なんだろうなあ……

 

 

最後の場面で、みんなと同じように三角巾をつけている三世次を見るとホロリ……となる。

三世次〜〜(涙)

 

 

おわりに

そんなこんなでとても良い舞台、戯曲でございました。

円盤買うぞ〜〜!

 

 

 

*1:参考までに、私がこれまでに読んだことのあるシェイクスピア作品を挙げておく。これ以外の作品の要素は『天保〜』に出てきても認識できていない可能性が高い。

(2020年2月22日現在)

『ヘンリー六世第三部』

『リチャード三世』

『リチャード二世』

『ヘンリー五世』

『タイタス・アンドロニカス』

ロミオとジュリエット』※原作未読、1968年版映画のみ鑑賞

ハムレット

『オセロー』

リア王

マクベス

『間違いの喜劇』

恋の骨折り損

『夏の夜の夢』

『ペリクリーズ』

『シンベリン』※原作未読、2014年版映画のみ鑑賞

冬物語

テンペスト

*2:ここで言う「リチャード三世」とは実在の人物リチャード三世のことではなく、シェイクスピアによる戯曲『リチャード三世』の登場人物リチャードのことを指す。

なぜならウィリアム・シェイクスピアが仕えた女王エリザベス一世は、リチャード三世を倒しテューダー朝を始めたヘンリー七世の孫。その事情からシェイクスピアは、エリザベスの祖父の敵であったリチャード三世を史実よりも極悪人として脚色して戯曲を執筆したらしいので。

*3:石川島には江戸時代に無宿人の収容所があったらしい。

*4:実際はおさちをお光だと勘違いしているだけなのだが……

*5:2020年版舞台は、このとき死んでいった者が亡霊のように現れる演出が『リチャード三世』を思い起こさせて楽しかった。

*6:最高の演出をありがとうございました。