ぴかぴかマグパイ

とりとめのない日記

怪物は「過去」じゃない【Voice Box「フランケンシュタイン」感想】


Voice Box 2022 朗読「フランケンシュタイン」(以下、本作)を観てきました。本当に最高の公演でした!! この感動を残しておきたいので、感想を書くことにします。
※この記事は公演内容のネタバレが多分に含まれます。


この記事を書いている人:小説『フランケンシュタイン』(以下、原作小説)の大ファン。



公式HP:株式会社オフィスサイン

はじめに

朗読「フランケンシュタイン」。当初は2020年に公演が予定されていたものの、コロナ禍により中止。2022年のこのたび、2年越しに公演が実現しました。
私自身も2年間この公演を待ちわびていたので、観劇することができてよかったです。本当に。

公演は昼と夜の全2公演。どちらも観ました。


朗読「フランケンシュタイン」、最高!


枠組み

本作はひとりの「医師」と、人工知能「メアリー」の会話の場面から始まります。
そこに突如現れた謎の「侵入者」が一悶着あった末に、医師に一冊の本を渡して立ち去りました。「わたしは"フランケンシュタイン"とは違う」「君たちの進化はもう、誰にも止められない」という言葉を残して。
「侵入者」が渡した本のタイトルは『フランケンシュタイン』。医師がその本を読み始めることで、『フランケンシュタイン』の物語が語られていきます。


まずこの枠組みですよね、いいですよね。古典をやるうえで、「古典を眺める現代人」という枠組みを追加する行為。

観客が共感しやすくなって、個人的に好きなやり口です。それになにより、原作小説の『フランケンシュタイン』が、現代の我々にも刺さる作品であることがより強く感じられる。

さらにこの「枠組み」というもの、原作小説がそもそも「作品の語り手ロバート・ウォルトンの語りの中でヴィクター・フランケンシュタインが物語を語り、その語りの中でさらに被造物*1が語る」という入れ子構造になっているので、ことさらマッチしていて良いなあと思いました。


ウォルトンとヴィクター

さて、劇の中で語られる『フランケンシュタイン』の物語は、原作小説通り、北極点を目指す探検家ロバート・ウォルトンの語りから始まります。

このウォルトンとヴィクターが出会う場面、よかったです。世界の真理を自分のものにするべく、危うい好奇心に駆られる2人の青年、ウォルトンとヴィクター。

この舞台では、昼公演と夜公演で役代わりがありました。昼公演は平川さんがヴィクターを、羽多野さんがウォルトンを演じ、夜公演ではそれが逆になります。

2人の役者さんが公演ごとに役を交換するのって、この2役の関係性を感じられていいですよね。意図されたものかは置いといて!*2


ヴィクターと、2人の幼馴染

ヴィクター・フランケンシュタインは、かつて自分を突き動かした知への情熱と、それにより招かれた破滅について語りはじめます。
まず初めに語られるのが、義理の妹であるエリザベスと、幼馴染のヘンリー・クラーヴァルの2人。


この2人の描かれ方がさあ……本作のこの2人の解釈が、とてもよかったですね。

まず驚いたのが、エリザベスの扱われ方でした。原作小説において、ヴィクターの幼馴染でありフィアンセであるエリザベス。通例、『フランケンシュタイン』の翻案では大きな存在感を放っている彼女の名前が、本作のキャスト欄には存在しないんです。そしてその印象通り、エリザベスはほとんど登場しません。

そして次に、驚きまではいかないものの「珍しいな」と感じたのが、ヘンリー・クラーヴァル*3の扱われ方です。

クラーヴァルは、ヴィクターの幼馴染で親友です。原作小説でもかなり出番があるのですが、エリザベスとは対照的に、翻案ではそもそも存在ごと省略されることが多い人物です。

そのクラーヴァルの名前が、本作のキャスト欄には堂々と刻まれ、物語中での存在感も大きなものとなっていました。


この2人の扱われ方を見てふと、「ヴィクターは本作でも『信頼できない語り手』なんだな」と感じました。

というのも本作のヴィクター、口では「私はエリザベスのことを愛している」と言っています。しかし実際には、エリザベスの「早く故郷に帰ってきて」という言葉を1年以上も無視しますし、結婚も先延ばしにします。

一方でクラーヴァルに対しては、「僕には友人がいない。きみ(クラーヴァル)は友人とかじゃなくて、ただの『腐れ縁』だよ」と軽口を言っています。しかし実際、彼はクラーヴァルに誰よりも心を許しているんです。*4


さて、原作小説はその中身のほとんどがヴィクターの一人称語りで進行します。このヴィクターの語りですが、いわゆる「信頼できない語り手」……つまり、「言ってることとやってることが違う」「本心とは違うきれいな建前ばかりを言ってしまう」という特性が随所に見られます。*5

で、本作のヴィクターも、言ってることとほんとうに思ってることはきっと違うんだろうな……と思いました。*6そしてきっと、本作におけるヴィクターの「伴侶」役は、エリザベスではなくクラーヴァルだったんですよね。

それについてはまた後述。


余談

エリザベスについて思ったこと。
本作では、舞台後方のモニターに影絵的な映像が映し出されています。観客の想像力をアシストする役割ですね。

さて、その映像の中で登場人物たちも描かれるんですが、エリザベスとヴィクター、この2人って「向き合う」という構図にならないんですよね。ほとんど常に「背中合わせ」の向きなんです。

一瞬、動作の途中という感じでエリザベスがヴィクターの方を向く瞬間もあるのだけど、この2人が「同じ地面に立ってお互いの方を向き合う」という画がとにかく無い。

舞台上でも、ヴィクターとエリザベスが同じ場に居合わせることはありません。手紙でのやり取りか、もしくは「エリザベスは家族の死がショックで部屋に引きこもっている」*7という形で、2人が対面することはありません。

というわけで、本作ではエリザベスの存在感を意図して弱めているのかもしれないな、と感じた次第です。邪推、余談。


ヴィクターの幼少期

ヴィクターは、幼少期の自分の興味について語ります。幼い日のヴィクターが興味を持ったのは、錬金術の本でした。18世紀当時、錬金術はすでに完全に論破されていたのですが、ヴィクター少年はこれを現実のものとして信奉します。

この時の印象的なエピソードとして、父親との会話がありますね。ヴィクター少年が、錬金術ってすごいや!と、嬉々として父親に自分の発見を報告しに行くと、ヴィクター父はそれを「時代遅れのファンタジーに過ぎない、時間の無駄だ」と一蹴します。
しかしヴィクター少年はその後も父の目を盗んで、錬金術の本を読み漁ります。

……この父と子のエピソード、いいですよね。『フランケンシュタイン』という物語のテーマのひとつに、「父と子」があると思います。「ヴィクター父とヴィクター」であったり、「ヴィクターと被造物」であったり、はたまた「神と人間」であったり。

で、このヴィクター父の非情な振る舞いエピソード。本作の不健全な父子関係の筆頭みたいで、私は好きですね。


父親の目を盗んで錬金術に没頭するヴィクター少年は、次のようなことをつぶやきます。
「もし、ぼくが不老不死の秘薬を完成させて、人間に永遠の命を与えることができたら、……」

与えることができたら……そのあとは口ごもるヴィクター少年、いったいどんな言葉が続くはずだったんでしょうか。ヴィクターは生命の謎を解明して、その先にいったい何を望んでいた?


きっと一つには、「愛情」だったんじゃないのかな、と私は感じました。

もし、父さんの見限った錬金術で、人間に永遠の命を与えることができたら、父さんはぼくのことを褒めてくれるだろう……

本作で、被造物が他者からの愛を望んだように、きっとヴィクターも、誰かからの愛を望んでいたのではないかと思いました。


夢が砕けた日

「ある雷雨の日、わたしの夢は打ち砕かれました」ヴィクターはそう語ります。
落雷によって、ヴィクターの家は燃え、その火事で母を失ってしまいました。

しかしこれゾッとしたのが、ヴィクターの言う「夢が砕かれた」って、母を喪ったことじゃないんですよね。


火事になる少し前、ヴィクターは最新の科学理論の話を聞き、それによって錬金術が破綻していることについに気づきます。母親の死よりも、錬金術がファンタジーだと知ったことの方が、ヴィクターにはショックだったわけです。

このヴィクターの様子を見て、クラーヴァルもドン引きです。怖いですよね。知識欲モンスター。

このシーン、真理への探究心に取り憑かれた異常者のような描かれ方で、よかったです。その一方、上述の解釈でいくと、そうまでして父からの愛を欲していたのかな……と切なくも感じました。


大学へ

大学へ進学したヴィクターは、そこで出会ったヴァルトマン教授の講義に感銘を受けます。

この時のヴィクター、謎にコミカルでよかったです。

本作、基本的に真面目なんだけど、アドリブ等でめちゃくちゃギャグに振り切るシーンもあって、見ていて楽しかったですね。めっちゃ笑いました。


怪物誕生

雷雨の中、ヴィクターはついに人造人間の作成に成功しました。しかし、命を得て起き上がったそれを見て、ヴィクターはひどく後悔することになります。

これは邪推なんですが、本作の怪物(以下、被造物)の外見について、ずっと引っ掛かっているものがあります。

前述の通り本作では後方モニターにイメージ映像が流れているんですが、そこで描かれる怪物、なんだかヴィクター父に似ているんですよね。体型が。

ヴィクターは、なにを思ってこのような「人間」を作ろうとしたのかなあ……

もしかしたら、自分を愛してくれる誰かをつくりたかったのかもしれないですね。


医師とメアリーの話

ヴィクターが被造物を目覚めさせた場面で、『フランケンシュタイン』の話は一度中断され、冒頭の医師とメアリーの場面に映ります。
この医師、じつは彼もAIだということがここで判明します。さらに、AIが「ヴィクター・フランケンシュタイン」について知ることはどうやら禁じられているらしく、医師は人間である「院長」によりリセット(記憶消去)が掛けられてしまいます。
しかし医師はとある方法で密かにリセットを免れました。そしてふたたび『フランケンシュタイン』の物語を読もうとします。
最初は彼に反対していたAIメアリーも、「ぼくたち(AI)は学ぶことが一番の仕事だ。ぼくには学ぶ権利がある」という医師の言葉に説得され、協力してくれます。

このAIが「メアリー」という、原作小説の作者メアリー・シェリーと同じ名前なの、意味深で良いですよね。
フランケンシュタインという物語を生み出した作者と同じ名前のAIが、最終的には、創造主と被造物の歩み寄りに手を貸してくれる。


被造物との再会

さて、被造物を造り出したショックで精神を病んだヴィクターが療養すること半年。「早く帰ってきてね」というエリザベスの願いを、ヴィクターが無視すること1年半。
弟ウィリアムが殺された知らせを受け帰郷したヴィクターは、2年越しに被造物と再会します。

この被造物が、まあ〜〜〜良い。昼公演の三宅健太さんも、夜公演の佐藤拓也さんもとても良かったです。

しゃがれた声で、まさしく「怪物」のような雰囲気なんだけれど、彼が一方的に人間に嫌われ、孤独に苦しんできた語りを聴くと、観客の私もだんだんと彼に同情していくんですよね。


被造物は自分のこれまでを語ります。人間に迫害される孤独な日々。なぜ自分はこんな目に合わなければならないのかと思った時、被造物は川面に映った自分の姿を目にしました。
「このおぞましい顔が、おれなのか!」

……被造物の話っていつも辛い気持ちになるんだけど、本作の、三宅被造物と佐藤被造物のこの叫び、めちゃくちゃ胸に迫るものがありました。本当にね……いいね、被造物……


被造物の回想

人間たちから逃げた被造物は、とある一家に出会います。貧しくも優しい愛情を育み合う、ド・ラセーという一家です。その美しさに心惹かれた被造物は、密かにその家族の様子を覗いて日々を過ごします。
ある日、ド・ラセー一家の息子と恋仲であるアラブ人の娘サフィーが現れます。

本作のサフィー、なんだったんでしょうね!!? たくさん笑いました。



秘密の共有

さて、少し話を飛ばして、ヴィクターの生命創造(再)の場面にいきます。
孤独な被造物の伴侶とするべく、第二の被造物を制作するヴィクター。その完成間近になって、ヴィクターの元へ突然クラーヴァルが現れます。研究室を見たクラーヴァルに、ヴィクターはこれまでの自分の行いを白状しました。

ここの、クラーヴァルに秘密を共有するシーン、良いですよね。ここからの一連の場面が、本作の大きな山場のひとつだと思います。

原作小説だと、ヴィクターはクラーヴァルに生命創造のことを最後まで打ち明けようとしませんでした。でも本作のヴィクターはむしろ、クラーヴァルに全てを打ち明けたがっていたように感じました。

これよりも前の場面で、その伏線かな、みたいな台詞があるんですよね。

(ひとりめの)被造物を造った後、ヴィクターは「あいつ(被造物)が生きてるはずがない」などと、クラーヴァルの前で独り言を言う場面があります。
それに対してクラーヴァルが、「独り言にしては声が大きいな。まるで聞いてほしいみたいだ」なんて指摘をするんです。

そしてこの場面でも、ヴィクターはほとんど自発的にクラーヴァルに秘密を打ち明けます。


この、「秘密を知ってほしい」というの、良いですよね。


本作において、きっとヴィクター父や「院長」が行ったような「知識の獲得を制限する」という行為は、親愛から最も遠いおそろしい行いなんじゃないかな、と思います。

反対に、「知識を得させる」「自分のことを話して聞かせる」というのは、愛とも言える行為なのかなって。ウォルトンが姉に手紙を書いたり、ヴィクターがウォルトンに身の上を話したり、メアリーが医師を止めなかったように。

本作において、ヴィクターがクラーヴァルに秘密を話したのは、とても大きなことだったんじゃないかな、と思いました。


伴侶の殺害

秘密を知ったクラーヴァルは、第二の被造物を造るのを止めるようヴィクターに言います。すると、今まで様子を見ていたらしい被造物が現れ、新たな被造物を目覚めさせるよう、クラーヴァルを人質に取ってヴィクターを脅迫します。

第二の被造物を作れ、さもなければクラーヴァルを殺す。

激論の末に、被造物はクラーヴァルの命を奪います。そしてヴィクターは報復として、第二の被造物を殺害してしまいます。


この一連の場面、本当に息を呑む、凄まじい体験でした。

先述した「本作におけるヴィクターの伴侶役はクラーヴァルじゃないか」というのは、この場面を見て強く感じたことだったんです。

この場面では、被造物がクラーヴァルを殺し、その復讐にヴィクターは被造物の伴侶を殺します。同じ空間で、同じ時に殺されて横たわるクラーヴァルと第二の被造物を見ていると、それぞれの「伴侶」という対比のように思えました。


さてこの展開、原作小説とは少し違うんですよね。原作小説だと、まずヴィクターが第二の被造物を殺します。それに怒り狂った被造物が「おまえの婚礼の夜にきっと行くからな」と言い残し、クラーヴァルとエリザベスを殺害するという順番です。

「婚礼の夜に」というセリフがつまり、伴侶を殺された復讐にお前の伴侶を殺してやる、という宣言になっています。実際に結婚式の夜にエリザベスが殺害される顛末も、ドラマチックに描かれます。


翻って本作では、エリザベスの殺害の描写はかなりあっさりと済まされ、対照的にクラーヴァルの死がとても強調されている印象を受けます。


本作ではとても強い存在感を放っていたクラーヴァル。
ヴィクターの幼馴染で、彼を支え、いちばんの秘密までもを共有して、最後には殺されてしまう。

翻案では存在ごと省かれがちなヘンリー・クラーヴァルという登場人物を、こんなに大きな役として描いてくれたのは、非常に新鮮で良かったなと思います。
ありがとうございました。*8


過去の過ち

第二の被造物を殺したヴィクターは言います。「ぼくはずっと悔やんでいた。過去の過ちを」
すると、伴侶を殺された絶望に打ちひしがれる被造物は叫びます。
「おれは『過去』じゃない。おれは『今』を生きている!」

この怪物の叫び、震えますよね。魂が……

ヴィクターが犯した罪というのは、墓荒らしをしたことでも、神の領域に踏み込んだことでも、自分のせいで殺人を招いたことでもない。彼の罪は、命を生み出しておいて、その責任を取らなかったこと。

被造物は「今」もなお苦しんでいるという、命を生み出すことの重みを感じさせる悲痛な叫び。とてもよかったです。


さらに印象的だったのが、夜公演での佐藤被造物の演技です。

「おれは『今』を生きている」という場面で佐藤さん演じる怪物、今までのしゃがれた声から突然に、滑らかな普通の声に変わるんですよね。
目の前にいる、「怪物」だと思っていた存在が、急に「人間」に見えてくるんです。
怪物のはずだった存在が、わたしたちと同じように考え、同じ痛みを感じる存在に見えて、ヴィクターの罪の重さを思い知らされる心地がします。

この演技、とても素晴らしかったなあ……と思います。


創造主と被造物の結末

絶望した被造物は、ヴィクターの父とエリザベスを手に掛けます。そしてヴィクターは逃げた被造物を追って北極まで辿り着き、そこでヴィクターの語りは終わります。
舞台はウォルトンとヴィクターの場面に戻ります。そこへ被造物が現れ、ウォルトンの止める声も届かず、ヴィクターは被造物を追って、ふたりもろとも氷の向こうへと姿を消していきました。

ここで本作における『フランケンシュタイン』の物語は終わります。


この結末、原作小説とは少し違うそれになっているんですよね。原作小説では、ウォルトンに全てを語り終えたヴィクターは衰弱して死に、それを見た被造物がひとり氷の向こうへと消えていきます。

しかし本作では2人とも死なず、どのような最後を迎えたのかは描かれません。


本を読み終えた医師はつぶやきます。「失うものが無くなった2人は、お互いに破滅させ合ったのかもしれない」
それに対し、メアリーはこのような可能性を提示します。「もしかしたら、協力し合う道を選んだのかも」

人間と被造物、作りし者と作られし者の関係性は、本作の大きなテーマですよね。

本作が、原作小説とちがってヴィクターと被造物の結末を描かなかったのは、この共生の可能性を示したかったからなんだろうなと思います。
そして、この「作りし者と作られし者」は現代にも刺さるテーマとして描かれました。


フランケンシュタイン」についての知識を得た事がバレたことで、医師とメアリーというふたつの人工知能は、院長により破壊されてしまいます。そして2人の役目は新しいAIに引き継がれます。
しかしそこで、まっさらなはずの新しいAIが「フランケンシュタイン……」と呟きます。医師とメアリーが残した知識が、新しいAIに受け継がれていたのです。
「私たちの進化はもう、誰にも止められない」


ヴィクターは被造物を造り、それを支配しようとしましたが失敗しました。同じく「院長」も、人間が作り出したAIを支配しようとして失敗します。

「生命」という、可能性に満ちた存在を造ってしまったら、もうそれを完全に支配することなんてできないのでしょう。彼らの進化は誰にも止められない。

それなら生命を造らなければいいのかと言うと、そういう話でもない。きっと人間の知的探究心に歯止めは効かないし、ヴィクターのような者はどの時代にも現れうる。*9

それにこれは何も人工生命のような遠い話ではなくて、そもそも「親と子」の物語なんですよね。

生殖にしろ、人造人間にしろ、人工知能にしろ、ヒトが命を生み出す限り、決して離れることのない問題なのでしょう。


さて、物語を最後まで見届けると、色々と思い当たるものもありました。本作冒頭に出てきた「侵入者」の正体はもしかしたら、被造物だったのかもしれませんね。それならきっと、あのときヴィクターと被造物は、氷の向こうでどのような道を選んだのでしょうか。

そして現代に生きる我々が選ぶのは、果たして。


全体を通して

本作、非常に秀逸な翻案だったなあと感じます。とても私好みの作品でした。

この記事では脚本に対しての感想が多くなってしまったんだけど、役者さん方も本当に素晴らしくて。

これが1日限りの公演だなんて、なんと贅沢な! 何度でも観たいし、何度でも味わえる。

本作に携わられたすべての方々に感謝します。この時代に、『フランケンシュタイン』のオタクをやっていてよかったです。幸せな時間でした。


願わくばまた劇場で、お会いしましょう!

*1:ヴィクター・フランケンシュタインが造った人造人間のことを、私は主に「被造物」と呼称しています。「怪物」と呼ぶよりも中立的な言葉で気に入っています

*2:余談ですがこの役代わりという演出、ナショナル・シアター・ライブ版「フランケンシュタイン」を思い出します。そこでは主演のベネディクト・カンバーバッチジョニー・リー・ミラーが、公演ごとにヴィクターと被造物を交互に演じるという演出が印象的でした。 本作の演出家斉藤さんが、公演パンフレットでこのNTL版に触れていたので、オマージュというのもあるのかな。

*3:本作では主に「ヘンリー」と呼ばれていましたが、私には「クラーヴァル」という呼び方のが馴染みがあるのでそちらで呼称します

*4:ヴィクターとクラーヴァルは、原作小説ではかなり優しくて穏やかな友愛で結ばれている印象なのですが、本作の2人の軽口を言い合うような関係は非常に新鮮で、原作オタクとしてとても楽しかったです!!!!!!!!!! 余談(私情)として、原作小説における私の推しはクラーヴァルです。クラーヴァル、いいよね……

*5:※個人の解釈です。

*6:自分がほんとうは何を恐れ、何を欲しているのかに気づかず、永遠に道を踏み外し続けてしまうという愚かで生きるのが下手なヴィクターの悲劇性をこそ、私は愛しています

*7:この描写は原作小説には存在しないし、原作小説における彼女の性格を考えると、若干違和感がある気がするので、本作の作為的な演出かもしれません

*8:超余談ですが、クラーヴァルに秘密を打ち明けてからエリザベスが殺害されるまでの流れは、伊藤潤二先生の漫画版『フランケンシュタイン』が頭に浮かびました。あれも非常に良い翻案なんですよね……

*9:余談ですがNHKの「フランケンシュタインの誘惑」という番組では、実在したさまざまな科学者の闇が取り上げられていて良いです。