ぴかぴかマグパイ

とりとめのない日記

このうえない幸せ【みきくらのかい『マクベス』感想】

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吉祥寺シアター×みきくらのかい 新リーディング『マクベス(昼公演)を観てきました。

最高! 最高の作品でしたね!

ということで感想を書きつづります。

※この記事には本公演のネタバレがたくさん含まれます!

 

 

この記事を書いた人:

シェイクスピア劇が好きなオタク。中でも特に好きな『マクベス』の戯曲を、三木眞一郎さんと小野大輔さんが朗読されると聴いて迷わず駆けつけた。

声優さんにはあまり詳しくないが、三木眞一郎さんには日頃アニメなどの色々な作品でお世話になっている。小野大輔さんには、以前最高の『フランケンシュタイン』朗読(怪物は「過去」じゃない【Voice Box「フランケンシュタイン」感想】 - ぴかぴかマグパイ)を魅せてもらった恩義がある。

 

感想

 

何から書こうかな……

意外に思ったのが、マクベス*1小野大輔さんが演じていることでした。

本公演は三木眞一郎さんが主催される劇と聞いていたので、タイトルロールのマクベス三木眞一郎さんが演じるものかと思っていました。

しかし劇が進むにつれ、この配役…………大正解過ぎ…………!!と心から納得しました。

 

小野大輔さんの、芯のあって力強い男前な声、マクベスにとてもよく似合いました。

最初は確かに英雄だったはずの男、マクベス。その彼が、野心に蝕まれて魔王の如き悪王となり、破滅していく姿。小野大輔さんの演技本当に……良かった……!!

 

劇冒頭、戦を終えたマクベスとバンクォーが、三人の魔女に予言を受ける場面。この時のマクベスが胸に秘める「野心」の演出もとても良かったです。

万歳マクベス、コーダーのご領主。万歳マクベス、いずれは王になる御方。*2

自身が王になるという予言を聞いたマクベス小野大輔)に、強いスポットライトが当たるんですよね。ああ……野心に……野心に目覚めている……!とハラハラしながら観ました。良かった……

 

 

そして、三木眞一郎さんが演じられるマクベス夫人。

 

三木眞一郎さんのマクベス夫人!! 三木眞一郎さんのマクベス夫人ですよみなさま!!!!

 

個人的に大興奮大感激の配役でした。

これは筆者の私情なんですが、私はマクベス夫人(役名)が大好きなんですよね……!

「私はお乳を飲ませて子どもを育てた。だからこの乳を吸う赤ん坊がどれだけ可愛いかよく知っています。それでも、私の顔に微笑みかけてくるその柔らかい唇から乳首をもぎ取り、子供の脳みそを叩き出してみせます。さっきのあなたのように一度やると誓ったなら」

この最強の台詞はほんの一端に過ぎない、あまりに強く美しい悪女・マクベス夫人。

シェイクスピア先生が得意とする(私観)、口が悪くて大胆で、野心に溢れた魅力的な悪役。

 

本公演の情報を初めて目にした時、マクベス夫人は三木眞一郎さんと小野大輔さん、どちらが演じられるんだろう?というのは、とても興味を惹かれるところでした。

力強いイメージのある小野大輔さんがマクベス夫人をやるとしたら、それはそれで絶対に強くて最高のマクベス夫人だろうな……!と思っていましたし、三木眞一郎さんにはもう絶対にマクベス夫人が似合うので、それもそれで見たい……!と思っていました。

 

なので、幕が開けて小野大輔さんがマクベスを演じた時、必然的にマクベス夫人は三木眞一郎さんをやる、と察してもうね、ワクワクが止まりませんでしたわ……!!

 

三木眞一郎さんのマクベス夫人、本当に良かった……!

まず三木眞一郎さんの声音が本当に好きなんですよね。

知的で、不敵で、柔らかくて、武力ではなく知力を想起させる、最高に強くてかっこよくて魅力的なお声。

三木眞一郎さんとマクベス夫人、掛け合わせたらそんなもの最高になるに決まってるんですよ……!!

マクベスを唆す、知的で色気のあるマクベス夫人の姿、本当に良かった……生きているうちに三木眞一郎さん演じるマクベス夫人をこの目で見ることができて、本当に良かった……

 

 

また、本公演は演出も面白かったです!

「朗読劇」ではあるんだけど、役者や舞台装置がかなり動く。

 

その中でも特に良かったのが、マクベスマクベス夫人が座っている空間で……!

透明な素材でできた四角い机と椅子があり、3枚の透明な板でその左右と後ろを囲われた、狭い個室のような舞台装置。それが舞台上に二つ置かれ、三木眞一郎さんと小野大輔さんがそれぞれその中に座ってマクベスマクベス夫人を演じていました。

この形状、どういう意味があるんだろう……と思ったんですが、劇を観ていくにつれ、この透明な板で囲われた四角い空間が、だんだん「檻」のように見えてきたんですよね。

魔女の予言に囚われてしまった二人を暗示しているような、この空間がとても良かったです。

 

対して、マクダフやマルカムを演じる際は、仕切りのない、ただ丸いテーブルと椅子に座っているんですよね。

マクダフたち、言ってみればこの劇のヒーローサイドである彼らが、調和のイメージのある「丸」で構成された開放的な空間にいること。

狭苦しい四角い空間に囚われているマクベス夫妻の病的さが強調されるようだな……と感じてよかったです。*3

 

そしてこのマクベス夫妻のいる四角い檻、劇が進むにつれてふと、「棺桶」にも見えてゾッとしました。

ダンカン王を殺害した後、罪の意識に耐えられず発狂し、自死してしまうマクベス夫人。そんな彼女が座する四角い空間の中には、いつのまにか花が置かれているんですよね。棺桶に添えられるように。

マクベス夫妻が辿る死の運命を想起させるような、シンプルだけど味わい深い舞台装置……とても……とても良かったです。

 

また、演出としてもう一つ印象的だったのが、上でも少し言及した「花」。

マクベス夫人の手によって、ダンカン王が座する玉座に置かれたり、王暗殺の罪を着せられる哀れな衛兵に手渡されたりします。

この花、美しい悪女たるマクベス夫人の「毒」というか悪意のようなものを象徴しているみたいで、良い小道具だな……と思いました。

しかしマクベス夫人が発狂すると、彼女が座する四角い空間の中に、大きな花が飾られるようになり。自身の犯した罪に苛まれたマクベス夫人の哀れな運命と重なって見え、とても好きでした。

 

いや本当に本公演、演者さん2人の圧巻の演技は言わずもがな、演出もね……本当に好みでね……

 

クライマックス、マクベスとマルカムたちの最終決戦での演出として、天井から、細長い糸のようなものが無数に垂れ下がってくるんですよ。

柳、植物のように見えて、マクベスにとって死の前兆である「バーナムの森」を連想して良いな〜と思ったし。それが赤いスポットライトに照らされると、戦場に降る血の雨にも見えてくるし。それと、少し考えたら柳(willow)って死を感じるモチーフだなと思い出し、更に良くて……とても印象的な場面でした。

 

 

さて、演者さんお二方の演技も、本当に言葉に言い尽くせないくらい良かったです……!

マクベス役が小野大輔さんなので、マクベスとの最終対決を担うマクダフは、もちろん三木眞一郎さんが演じられたのだけど。

悪役感の強いマクベス夫人とは対照的に、ヒーロー性の強いマクダフを演じる三木眞一郎さんも、とても良かったですね……!

なんだろうねこの、三木眞一郎さんの声色の柔らかさというか、優しさというか。忠義に溢れ、哀しみを乗り越えて悪王マクベスに立ち向かうマクダフに、非常にマッチしてましたね……!

マクベスとの最終対決で、「おれは月足らずで母の胎内から引きずり出された」と、マクベスの「まじない」を破る場面は胸が熱くなりました。良い……!! 三木眞一郎マクダフ、とても良かった……!!

 

そして小野大輔さんは本当に男前で気持ちのいいお声だなと。劇冒頭の、まだ王でなかった頃のマクベスは、正統派に男前な感じなんですよね。それが、最終対決では獣のごとく、魔王のごとくドスの効いた迫力のある演技で……断末魔の咆哮も圧巻でした。

 

 

……というわけで朗読『マクベス』、本当に最高の公演でした……!! この作品を観劇できたことに、このうえない幸せを感じています。

 

最高で圧倒的な演技を見せてくれた三木眞一郎さんと小野大輔さん、脚色・演出の倉本朋幸さん、本公演に携わった全ての方、本当にありがとうございました。

 

円盤化してくれ〜!

 

 

 

 

*1:戯曲のタイトルと主人公の名前が一緒なのややこしいですね! この記事では『マクベス』と二重鉤括弧で囲っている時は戯曲を、そうでなくただマクベスと書いている時は登場人物(役名)を指していることとします。

*2:本公演で使用されたのは福田恆存訳でしたが、筆者は普段松岡和子訳の『マクベス』に慣れ親しんでいるため、この記事では松岡訳につられていると思います。

*3:これが演出の意図なのかは分からないけど、私はこう解釈して楽しめたので良しとします!

裁縫ド初心者の自作ぬい備忘録

 

裁縫ド初心者が急に思い立って自作ぬいを作った備忘録です。

 

作りたかったもの:USJハロウィーン・ホラー・ナイトに登場する、単眼ピエロゾンビさん。イタズラ好きで元気なゾンビさんでとてもかわいい。

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(※お腹の中身がハミ出しているため、画像の一部にモザイクをかけています)

 

完成したもの:
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かわいい!!!

 

用意したもの

  • 自作ぬいを作る決意
  • たきゅーとちゃんさんの動画講座(後述)
  • 裁縫道具など(ミシンが無いため手縫い)
  • 裁縫に詳しい実姉

 

工程

型紙や作り方などは、全面的にたきゅーとちゃんさんの動画を参考にしました。なお、自分の裁縫スキル(ほぼゼロ)を鑑みて、たきゅーとちゃんさんの型紙の中で一番シンプルなものを選択しています。

動画では型紙の見方から教えてくれて、とっても親切で分かりやすいです。おすすめ!

【型紙配布】手縫いでもできちゃう!10cmサイズ立ちポーズぬいの作り方★身体編【ぬいぐるみ】 - YouTube

 

1. 材料調達

裁縫に詳しい姉を召喚し、新宿オカダヤで布やボタン、リボン、手縫い糸などを揃えます。

私は裁縫針に触るのも2年ぶりくらいなド初心者なので、オカダヤに来たこともなく……裁縫マイスターの姉に全てを案内してもらいました。本当に助かった。

 

地肌部分の生地はトイニットを使用しました。手触りが柔らかく、また切りっぱなしでも布端がほつれないため楽チンです。

その他の生地も、基本的に布端がほつれないものを使っています。

毛糸やワタは100均で調達。

目や口などの描画には、たきゅーとちゃんさんの動画でも紹介されているステッチカラー(刺繍風ペン)を使用しました。

 

2. 顔描き

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↑完成イメージ

 

素体はひたすら動画の通りに作ったので、特に言うことはないですね。(写真も撮ってなかった)

 

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顔はステッチカラーで描画。

ステッチカラーは刺繍風に描けるペンということで、描いたところが少し盛り上がった仕上がりになります。

たきゅーとちゃんさんの動画のようにチューブから直接描こうとするとうまく描けなかったため、爪楊枝ですくって少しずつ色を載せるようにして描きました。この方法だと細かい模様も描きやすいです。

 

★ぬいのお顔は刺繍で作ることが多いようですが、私は刺繍未経験だったため、「そもそも裁縫自体が不慣れなのに、これ以上初挑戦のものを増やしたらキャパオーバーになる……!」と思ったので、お手軽なステッチカラーを選択しました。それっぽくなればよろしい……!

 

3. 服

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製作途中の図

 

服を作ります。

たきゅーとちゃんさんの型紙を利用できるところは利用し、都度アレンジしながら作りました。

着せ替える予定はないので、洋服は本体に縫い付けていきます。

 

ここでは木工用ボンドとほつれ止め液を多用。

ズボンと靴はもう直接素体に貼り付けています。

また、布の模様付けには前述のステッチカラーが意外な活躍。

模様付け用に元々用意していた布用ペンは死ぬほどにじんだため使用を断念したのですが、

ステッチカラーは布の表面(繊維)に絡みつくように色が付くためか、ほとんど全くにじみませんでした。そのため、模様付け全般(袖のストライプ、右足の市松模様、帽子の市松模様など)に採用しました。

 

 

4. 帽子

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ここが一番苦戦。

帽子はこのキャラ独自のパーツのため、自分で型紙から製作しました。

これも勘で作りました。型紙については、最終的にキッチンペーパーで試作する方法が一番やりやすかったです。

 

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↑試作途中、うさ耳のようになってほっこりしたシーン

 

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帽子の市松模様もステッチカラーで着色しました。

正方形に切ったマスキングテープを貼り、上から着色。

 

 

5. 襟

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首元のフリフリの襟(ひだ襟と言うらしい)も独自パーツのため、頑張って製作。

参考にした動画:How to Make Harley Quinn Cuffs - YouTube

 

 

5. 完成

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という感じで完成!

製作期間は、仕事に行きながら作業をして1週間強といったところ。

大きさは、帽子を含めて全長15センチほど。手乗りサイズでとってもかわいいですね。

 

 

製作を振り返って

 

自作ぬい作りに大事なこと
  • 絶対に作り上げるという気持ち

一番大事でしたね。私の場合は、

・ハロウィンのUSJに行く日までに間に合わせる(期日)

・完成しない神作より完成する駄作(完成ファースト)

 

の2つ気持ちで自分を突き動かしました。

特に完成ファーストの気持ちはとても大事。裁縫初心者ということもあり、まずは一作完成させてみよう!!という気持ちでやりました。

 

自作ぬいを作ってよかったこと
  • 推しのぬいがこの世に誕生した

本当に嬉しい。世界一かわいい小さきいのち。

 

  • 裁縫へのハードルが下がった

以前までは「自分は裁縫ができない」という認識だったのですが、自作ぬいを完成させたことでそれが変わりました。

私は普段はお絵描き、ツイート、ブログやファンレターといった方法で推しへの気持ち(愛)を表現しているのですが、その中に新たに「裁縫」という選択肢が加わった感じです。

世界が広がったようでとても楽しいです。

 

 

というわけで自作ぬい備忘録でした。

製作に没頭しすぎて生活リズムがハチャメチャになったこと以外は良いことしかなかったですね。本当にやってよかったです。

オススメ!

 

怪物は「過去」じゃない【Voice Box「フランケンシュタイン」感想】


Voice Box 2022 朗読「フランケンシュタイン」(以下、本作)を観てきました。本当に最高の公演でした!! この感動を残しておきたいので、感想を書くことにします。
※この記事は公演内容のネタバレが多分に含まれます。


この記事を書いている人:小説『フランケンシュタイン』(以下、原作小説)の大ファン。



公式HP:株式会社オフィスサイン

はじめに

朗読「フランケンシュタイン」。当初は2020年に公演が予定されていたものの、コロナ禍により中止。2022年のこのたび、2年越しに公演が実現しました。
私自身も2年間この公演を待ちわびていたので、観劇することができてよかったです。本当に。

公演は昼と夜の全2公演。どちらも観ました。


朗読「フランケンシュタイン」、最高!


枠組み

本作はひとりの「医師」と、人工知能「メアリー」の会話の場面から始まります。
そこに突如現れた謎の「侵入者」が一悶着あった末に、医師に一冊の本を渡して立ち去りました。「わたしは"フランケンシュタイン"とは違う」「君たちの進化はもう、誰にも止められない」という言葉を残して。
「侵入者」が渡した本のタイトルは『フランケンシュタイン』。医師がその本を読み始めることで、『フランケンシュタイン』の物語が語られていきます。


まずこの枠組みですよね、いいですよね。古典をやるうえで、「古典を眺める現代人」という枠組みを追加する行為。

観客が共感しやすくなって、個人的に好きなやり口です。それになにより、原作小説の『フランケンシュタイン』が、現代の我々にも刺さる作品であることがより強く感じられる。

さらにこの「枠組み」というもの、原作小説がそもそも「作品の語り手ロバート・ウォルトンの語りの中でヴィクター・フランケンシュタインが物語を語り、その語りの中でさらに被造物*1が語る」という入れ子構造になっているので、ことさらマッチしていて良いなあと思いました。


ウォルトンとヴィクター

さて、劇の中で語られる『フランケンシュタイン』の物語は、原作小説通り、北極点を目指す探検家ロバート・ウォルトンの語りから始まります。

このウォルトンとヴィクターが出会う場面、よかったです。世界の真理を自分のものにするべく、危うい好奇心に駆られる2人の青年、ウォルトンとヴィクター。

この舞台では、昼公演と夜公演で役代わりがありました。昼公演は平川さんがヴィクターを、羽多野さんがウォルトンを演じ、夜公演ではそれが逆になります。

2人の役者さんが公演ごとに役を交換するのって、この2役の関係性を感じられていいですよね。意図されたものかは置いといて!*2


ヴィクターと、2人の幼馴染

ヴィクター・フランケンシュタインは、かつて自分を突き動かした知への情熱と、それにより招かれた破滅について語りはじめます。
まず初めに語られるのが、義理の妹であるエリザベスと、幼馴染のヘンリー・クラーヴァルの2人。


この2人の描かれ方がさあ……本作のこの2人の解釈が、とてもよかったですね。

まず驚いたのが、エリザベスの扱われ方でした。原作小説において、ヴィクターの幼馴染でありフィアンセであるエリザベス。通例、『フランケンシュタイン』の翻案では大きな存在感を放っている彼女の名前が、本作のキャスト欄には存在しないんです。そしてその印象通り、エリザベスはほとんど登場しません。

そして次に、驚きまではいかないものの「珍しいな」と感じたのが、ヘンリー・クラーヴァル*3の扱われ方です。

クラーヴァルは、ヴィクターの幼馴染で親友です。原作小説でもかなり出番があるのですが、エリザベスとは対照的に、翻案ではそもそも存在ごと省略されることが多い人物です。

そのクラーヴァルの名前が、本作のキャスト欄には堂々と刻まれ、物語中での存在感も大きなものとなっていました。


この2人の扱われ方を見てふと、「ヴィクターは本作でも『信頼できない語り手』なんだな」と感じました。

というのも本作のヴィクター、口では「私はエリザベスのことを愛している」と言っています。しかし実際には、エリザベスの「早く故郷に帰ってきて」という言葉を1年以上も無視しますし、結婚も先延ばしにします。

一方でクラーヴァルに対しては、「僕には友人がいない。きみ(クラーヴァル)は友人とかじゃなくて、ただの『腐れ縁』だよ」と軽口を言っています。しかし実際、彼はクラーヴァルに誰よりも心を許しているんです。*4


さて、原作小説はその中身のほとんどがヴィクターの一人称語りで進行します。このヴィクターの語りですが、いわゆる「信頼できない語り手」……つまり、「言ってることとやってることが違う」「本心とは違うきれいな建前ばかりを言ってしまう」という特性が随所に見られます。*5

で、本作のヴィクターも、言ってることとほんとうに思ってることはきっと違うんだろうな……と思いました。*6そしてきっと、本作におけるヴィクターの「伴侶」役は、エリザベスではなくクラーヴァルだったんですよね。

それについてはまた後述。


余談

エリザベスについて思ったこと。
本作では、舞台後方のモニターに影絵的な映像が映し出されています。観客の想像力をアシストする役割ですね。

さて、その映像の中で登場人物たちも描かれるんですが、エリザベスとヴィクター、この2人って「向き合う」という構図にならないんですよね。ほとんど常に「背中合わせ」の向きなんです。

一瞬、動作の途中という感じでエリザベスがヴィクターの方を向く瞬間もあるのだけど、この2人が「同じ地面に立ってお互いの方を向き合う」という画がとにかく無い。

舞台上でも、ヴィクターとエリザベスが同じ場に居合わせることはありません。手紙でのやり取りか、もしくは「エリザベスは家族の死がショックで部屋に引きこもっている」*7という形で、2人が対面することはありません。

というわけで、本作ではエリザベスの存在感を意図して弱めているのかもしれないな、と感じた次第です。邪推、余談。


ヴィクターの幼少期

ヴィクターは、幼少期の自分の興味について語ります。幼い日のヴィクターが興味を持ったのは、錬金術の本でした。18世紀当時、錬金術はすでに完全に論破されていたのですが、ヴィクター少年はこれを現実のものとして信奉します。

この時の印象的なエピソードとして、父親との会話がありますね。ヴィクター少年が、錬金術ってすごいや!と、嬉々として父親に自分の発見を報告しに行くと、ヴィクター父はそれを「時代遅れのファンタジーに過ぎない、時間の無駄だ」と一蹴します。
しかしヴィクター少年はその後も父の目を盗んで、錬金術の本を読み漁ります。

……この父と子のエピソード、いいですよね。『フランケンシュタイン』という物語のテーマのひとつに、「父と子」があると思います。「ヴィクター父とヴィクター」であったり、「ヴィクターと被造物」であったり、はたまた「神と人間」であったり。

で、このヴィクター父の非情な振る舞いエピソード。本作の不健全な父子関係の筆頭みたいで、私は好きですね。


父親の目を盗んで錬金術に没頭するヴィクター少年は、次のようなことをつぶやきます。
「もし、ぼくが不老不死の秘薬を完成させて、人間に永遠の命を与えることができたら、……」

与えることができたら……そのあとは口ごもるヴィクター少年、いったいどんな言葉が続くはずだったんでしょうか。ヴィクターは生命の謎を解明して、その先にいったい何を望んでいた?


きっと一つには、「愛情」だったんじゃないのかな、と私は感じました。

もし、父さんの見限った錬金術で、人間に永遠の命を与えることができたら、父さんはぼくのことを褒めてくれるだろう……

本作で、被造物が他者からの愛を望んだように、きっとヴィクターも、誰かからの愛を望んでいたのではないかと思いました。


夢が砕けた日

「ある雷雨の日、わたしの夢は打ち砕かれました」ヴィクターはそう語ります。
落雷によって、ヴィクターの家は燃え、その火事で母を失ってしまいました。

しかしこれゾッとしたのが、ヴィクターの言う「夢が砕かれた」って、母を喪ったことじゃないんですよね。


火事になる少し前、ヴィクターは最新の科学理論の話を聞き、それによって錬金術が破綻していることについに気づきます。母親の死よりも、錬金術がファンタジーだと知ったことの方が、ヴィクターにはショックだったわけです。

このヴィクターの様子を見て、クラーヴァルもドン引きです。怖いですよね。知識欲モンスター。

このシーン、真理への探究心に取り憑かれた異常者のような描かれ方で、よかったです。その一方、上述の解釈でいくと、そうまでして父からの愛を欲していたのかな……と切なくも感じました。


大学へ

大学へ進学したヴィクターは、そこで出会ったヴァルトマン教授の講義に感銘を受けます。

この時のヴィクター、謎にコミカルでよかったです。

本作、基本的に真面目なんだけど、アドリブ等でめちゃくちゃギャグに振り切るシーンもあって、見ていて楽しかったですね。めっちゃ笑いました。


怪物誕生

雷雨の中、ヴィクターはついに人造人間の作成に成功しました。しかし、命を得て起き上がったそれを見て、ヴィクターはひどく後悔することになります。

これは邪推なんですが、本作の怪物(以下、被造物)の外見について、ずっと引っ掛かっているものがあります。

前述の通り本作では後方モニターにイメージ映像が流れているんですが、そこで描かれる怪物、なんだかヴィクター父に似ているんですよね。体型が。

ヴィクターは、なにを思ってこのような「人間」を作ろうとしたのかなあ……

もしかしたら、自分を愛してくれる誰かをつくりたかったのかもしれないですね。


医師とメアリーの話

ヴィクターが被造物を目覚めさせた場面で、『フランケンシュタイン』の話は一度中断され、冒頭の医師とメアリーの場面に映ります。
この医師、じつは彼もAIだということがここで判明します。さらに、AIが「ヴィクター・フランケンシュタイン」について知ることはどうやら禁じられているらしく、医師は人間である「院長」によりリセット(記憶消去)が掛けられてしまいます。
しかし医師はとある方法で密かにリセットを免れました。そしてふたたび『フランケンシュタイン』の物語を読もうとします。
最初は彼に反対していたAIメアリーも、「ぼくたち(AI)は学ぶことが一番の仕事だ。ぼくには学ぶ権利がある」という医師の言葉に説得され、協力してくれます。

このAIが「メアリー」という、原作小説の作者メアリー・シェリーと同じ名前なの、意味深で良いですよね。
フランケンシュタインという物語を生み出した作者と同じ名前のAIが、最終的には、創造主と被造物の歩み寄りに手を貸してくれる。


被造物との再会

さて、被造物を造り出したショックで精神を病んだヴィクターが療養すること半年。「早く帰ってきてね」というエリザベスの願いを、ヴィクターが無視すること1年半。
弟ウィリアムが殺された知らせを受け帰郷したヴィクターは、2年越しに被造物と再会します。

この被造物が、まあ〜〜〜良い。昼公演の三宅健太さんも、夜公演の佐藤拓也さんもとても良かったです。

しゃがれた声で、まさしく「怪物」のような雰囲気なんだけれど、彼が一方的に人間に嫌われ、孤独に苦しんできた語りを聴くと、観客の私もだんだんと彼に同情していくんですよね。


被造物は自分のこれまでを語ります。人間に迫害される孤独な日々。なぜ自分はこんな目に合わなければならないのかと思った時、被造物は川面に映った自分の姿を目にしました。
「このおぞましい顔が、おれなのか!」

……被造物の話っていつも辛い気持ちになるんだけど、本作の、三宅被造物と佐藤被造物のこの叫び、めちゃくちゃ胸に迫るものがありました。本当にね……いいね、被造物……


被造物の回想

人間たちから逃げた被造物は、とある一家に出会います。貧しくも優しい愛情を育み合う、ド・ラセーという一家です。その美しさに心惹かれた被造物は、密かにその家族の様子を覗いて日々を過ごします。
ある日、ド・ラセー一家の息子と恋仲であるアラブ人の娘サフィーが現れます。

本作のサフィー、なんだったんでしょうね!!? たくさん笑いました。



秘密の共有

さて、少し話を飛ばして、ヴィクターの生命創造(再)の場面にいきます。
孤独な被造物の伴侶とするべく、第二の被造物を制作するヴィクター。その完成間近になって、ヴィクターの元へ突然クラーヴァルが現れます。研究室を見たクラーヴァルに、ヴィクターはこれまでの自分の行いを白状しました。

ここの、クラーヴァルに秘密を共有するシーン、良いですよね。ここからの一連の場面が、本作の大きな山場のひとつだと思います。

原作小説だと、ヴィクターはクラーヴァルに生命創造のことを最後まで打ち明けようとしませんでした。でも本作のヴィクターはむしろ、クラーヴァルに全てを打ち明けたがっていたように感じました。

これよりも前の場面で、その伏線かな、みたいな台詞があるんですよね。

(ひとりめの)被造物を造った後、ヴィクターは「あいつ(被造物)が生きてるはずがない」などと、クラーヴァルの前で独り言を言う場面があります。
それに対してクラーヴァルが、「独り言にしては声が大きいな。まるで聞いてほしいみたいだ」なんて指摘をするんです。

そしてこの場面でも、ヴィクターはほとんど自発的にクラーヴァルに秘密を打ち明けます。


この、「秘密を知ってほしい」というの、良いですよね。


本作において、きっとヴィクター父や「院長」が行ったような「知識の獲得を制限する」という行為は、親愛から最も遠いおそろしい行いなんじゃないかな、と思います。

反対に、「知識を得させる」「自分のことを話して聞かせる」というのは、愛とも言える行為なのかなって。ウォルトンが姉に手紙を書いたり、ヴィクターがウォルトンに身の上を話したり、メアリーが医師を止めなかったように。

本作において、ヴィクターがクラーヴァルに秘密を話したのは、とても大きなことだったんじゃないかな、と思いました。


伴侶の殺害

秘密を知ったクラーヴァルは、第二の被造物を造るのを止めるようヴィクターに言います。すると、今まで様子を見ていたらしい被造物が現れ、新たな被造物を目覚めさせるよう、クラーヴァルを人質に取ってヴィクターを脅迫します。

第二の被造物を作れ、さもなければクラーヴァルを殺す。

激論の末に、被造物はクラーヴァルの命を奪います。そしてヴィクターは報復として、第二の被造物を殺害してしまいます。


この一連の場面、本当に息を呑む、凄まじい体験でした。

先述した「本作におけるヴィクターの伴侶役はクラーヴァルじゃないか」というのは、この場面を見て強く感じたことだったんです。

この場面では、被造物がクラーヴァルを殺し、その復讐にヴィクターは被造物の伴侶を殺します。同じ空間で、同じ時に殺されて横たわるクラーヴァルと第二の被造物を見ていると、それぞれの「伴侶」という対比のように思えました。


さてこの展開、原作小説とは少し違うんですよね。原作小説だと、まずヴィクターが第二の被造物を殺します。それに怒り狂った被造物が「おまえの婚礼の夜にきっと行くからな」と言い残し、クラーヴァルとエリザベスを殺害するという順番です。

「婚礼の夜に」というセリフがつまり、伴侶を殺された復讐にお前の伴侶を殺してやる、という宣言になっています。実際に結婚式の夜にエリザベスが殺害される顛末も、ドラマチックに描かれます。


翻って本作では、エリザベスの殺害の描写はかなりあっさりと済まされ、対照的にクラーヴァルの死がとても強調されている印象を受けます。


本作ではとても強い存在感を放っていたクラーヴァル。
ヴィクターの幼馴染で、彼を支え、いちばんの秘密までもを共有して、最後には殺されてしまう。

翻案では存在ごと省かれがちなヘンリー・クラーヴァルという登場人物を、こんなに大きな役として描いてくれたのは、非常に新鮮で良かったなと思います。
ありがとうございました。*8


過去の過ち

第二の被造物を殺したヴィクターは言います。「ぼくはずっと悔やんでいた。過去の過ちを」
すると、伴侶を殺された絶望に打ちひしがれる被造物は叫びます。
「おれは『過去』じゃない。おれは『今』を生きている!」

この怪物の叫び、震えますよね。魂が……

ヴィクターが犯した罪というのは、墓荒らしをしたことでも、神の領域に踏み込んだことでも、自分のせいで殺人を招いたことでもない。彼の罪は、命を生み出しておいて、その責任を取らなかったこと。

被造物は「今」もなお苦しんでいるという、命を生み出すことの重みを感じさせる悲痛な叫び。とてもよかったです。


さらに印象的だったのが、夜公演での佐藤被造物の演技です。

「おれは『今』を生きている」という場面で佐藤さん演じる怪物、今までのしゃがれた声から突然に、滑らかな普通の声に変わるんですよね。
目の前にいる、「怪物」だと思っていた存在が、急に「人間」に見えてくるんです。
怪物のはずだった存在が、わたしたちと同じように考え、同じ痛みを感じる存在に見えて、ヴィクターの罪の重さを思い知らされる心地がします。

この演技、とても素晴らしかったなあ……と思います。


創造主と被造物の結末

絶望した被造物は、ヴィクターの父とエリザベスを手に掛けます。そしてヴィクターは逃げた被造物を追って北極まで辿り着き、そこでヴィクターの語りは終わります。
舞台はウォルトンとヴィクターの場面に戻ります。そこへ被造物が現れ、ウォルトンの止める声も届かず、ヴィクターは被造物を追って、ふたりもろとも氷の向こうへと姿を消していきました。

ここで本作における『フランケンシュタイン』の物語は終わります。


この結末、原作小説とは少し違うそれになっているんですよね。原作小説では、ウォルトンに全てを語り終えたヴィクターは衰弱して死に、それを見た被造物がひとり氷の向こうへと消えていきます。

しかし本作では2人とも死なず、どのような最後を迎えたのかは描かれません。


本を読み終えた医師はつぶやきます。「失うものが無くなった2人は、お互いに破滅させ合ったのかもしれない」
それに対し、メアリーはこのような可能性を提示します。「もしかしたら、協力し合う道を選んだのかも」

人間と被造物、作りし者と作られし者の関係性は、本作の大きなテーマですよね。

本作が、原作小説とちがってヴィクターと被造物の結末を描かなかったのは、この共生の可能性を示したかったからなんだろうなと思います。
そして、この「作りし者と作られし者」は現代にも刺さるテーマとして描かれました。


フランケンシュタイン」についての知識を得た事がバレたことで、医師とメアリーというふたつの人工知能は、院長により破壊されてしまいます。そして2人の役目は新しいAIに引き継がれます。
しかしそこで、まっさらなはずの新しいAIが「フランケンシュタイン……」と呟きます。医師とメアリーが残した知識が、新しいAIに受け継がれていたのです。
「私たちの進化はもう、誰にも止められない」


ヴィクターは被造物を造り、それを支配しようとしましたが失敗しました。同じく「院長」も、人間が作り出したAIを支配しようとして失敗します。

「生命」という、可能性に満ちた存在を造ってしまったら、もうそれを完全に支配することなんてできないのでしょう。彼らの進化は誰にも止められない。

それなら生命を造らなければいいのかと言うと、そういう話でもない。きっと人間の知的探究心に歯止めは効かないし、ヴィクターのような者はどの時代にも現れうる。*9

それにこれは何も人工生命のような遠い話ではなくて、そもそも「親と子」の物語なんですよね。

生殖にしろ、人造人間にしろ、人工知能にしろ、ヒトが命を生み出す限り、決して離れることのない問題なのでしょう。


さて、物語を最後まで見届けると、色々と思い当たるものもありました。本作冒頭に出てきた「侵入者」の正体はもしかしたら、被造物だったのかもしれませんね。それならきっと、あのときヴィクターと被造物は、氷の向こうでどのような道を選んだのでしょうか。

そして現代に生きる我々が選ぶのは、果たして。


全体を通して

本作、非常に秀逸な翻案だったなあと感じます。とても私好みの作品でした。

この記事では脚本に対しての感想が多くなってしまったんだけど、役者さん方も本当に素晴らしくて。

これが1日限りの公演だなんて、なんと贅沢な! 何度でも観たいし、何度でも味わえる。

本作に携わられたすべての方々に感謝します。この時代に、『フランケンシュタイン』のオタクをやっていてよかったです。幸せな時間でした。


願わくばまた劇場で、お会いしましょう!

*1:ヴィクター・フランケンシュタインが造った人造人間のことを、私は主に「被造物」と呼称しています。「怪物」と呼ぶよりも中立的な言葉で気に入っています

*2:余談ですがこの役代わりという演出、ナショナル・シアター・ライブ版「フランケンシュタイン」を思い出します。そこでは主演のベネディクト・カンバーバッチジョニー・リー・ミラーが、公演ごとにヴィクターと被造物を交互に演じるという演出が印象的でした。 本作の演出家斉藤さんが、公演パンフレットでこのNTL版に触れていたので、オマージュというのもあるのかな。

*3:本作では主に「ヘンリー」と呼ばれていましたが、私には「クラーヴァル」という呼び方のが馴染みがあるのでそちらで呼称します

*4:ヴィクターとクラーヴァルは、原作小説ではかなり優しくて穏やかな友愛で結ばれている印象なのですが、本作の2人の軽口を言い合うような関係は非常に新鮮で、原作オタクとしてとても楽しかったです!!!!!!!!!! 余談(私情)として、原作小説における私の推しはクラーヴァルです。クラーヴァル、いいよね……

*5:※個人の解釈です。

*6:自分がほんとうは何を恐れ、何を欲しているのかに気づかず、永遠に道を踏み外し続けてしまうという愚かで生きるのが下手なヴィクターの悲劇性をこそ、私は愛しています

*7:この描写は原作小説には存在しないし、原作小説における彼女の性格を考えると、若干違和感がある気がするので、本作の作為的な演出かもしれません

*8:超余談ですが、クラーヴァルに秘密を打ち明けてからエリザベスが殺害されるまでの流れは、伊藤潤二先生の漫画版『フランケンシュタイン』が頭に浮かびました。あれも非常に良い翻案なんですよね……

*9:余談ですがNHKの「フランケンシュタインの誘惑」という番組では、実在したさまざまな科学者の闇が取り上げられていて良いです。

【感想】極上文學「ジキルとハイド」観ました

■16th<jekyll&hyde> - MAG.net 公式サイト

極上文學「ジキルとハイド」を観てきました。スティーヴンソンの原作小説「ジキルとハイド」が好きなので!
観に行ってよかったな〜と思える舞台でした。ありがとうございました☺️💜
以下、感想とか原作語りとか。


・「後継者」の存在がよかった! 原作にいないキャラクターをなぜ語り手として置いたんだろう? と思ってたんだけど、終盤を見てなるほどと納得しました。「後継者」がいつのまにか、観客として見ている私の写し身になるんですよね。クラシックをやる上で生まれがちな現在と舞台上での時間の壁をぶち破って、これは19世紀の遠い外国の物語ではなく今ここで見ている私の物語だぞと胸ぐらを掴まれた心地がして良かったです。


・ストーリーも良かった。原作から大胆な翻案をしていてビックリしたけどとても面白かった! ジキルの独白の手紙で終わったかと思いきや、遡って謎解きをするような展開が楽しかったです。


・「ジキル」がね……良かったよね…………原作においてはいわゆる「信頼できない語り手」ぶりを存分に発揮して、そのまま勝ち逃げ(?)している印象のジキルが、この舞台では「後継者」によってツッコミを受けていたのが楽しかった。ジキルの変貌にはゾクゾクしたなあ


・「ハイド」とは何者だったのか。ジキルが作った変身薬を、この翻案では「人の本性を暴く」薬だと位置付けていたのかな。そして、ジキルの本性たるハイドはとても無垢で、善良とさえ言える存在だった。とても面白い解釈だったな……!
私の原作小説に対する自解釈としては、ジキルが作った変身薬は「人の欲望をあらわにする」薬なんですよね。一見すると極上文學版の解釈と変わらなように思えるんだけど、色々考えてみるとかなり違くて面白かったので記しておきます。

(以下は個人の解釈です)原作小説「ジキルとハイド」は善と悪の葛藤というより、理性と欲望の葛藤の話なんですよね。
エドワード・ハイドとは、ヘンリー・ジキルが内に抑え込んでいる欲望を体現する存在。ジキルが普段は理性や倫理によって抑え込んでいるもの……快楽にふけりたいだとか、暴力を振るいたいとか、(人間の原始の欲望としての)殺人衝動だとか、神≒父親への反抗心だとか。だからハイドが犯す暴力や殺人、父・神への冒涜行為などは、全部ジキルが無意識に望んでいるものなんですよね。なので、ハイドというのは、ジキルと限りなく同一の存在なんですよ。ただ好き勝手に行動しているだけのジキルとも言える。
ところが作中でジキルは絶対にハイドの行為を自分の罪だと認めようとはしないので、その面の皮の厚さっぷりにこ、こいつ……!!とツッコミつつ笑いながら読んでいるんですけど。

一方で極上文學はどうだったかというと、ハイドとはジキルの本性を表す存在でした。そしてその本性とは無垢なるものであり、暴走するジキルを止める善性さえ持っていた。そこになんというか、原作には無い救いというか、希望のようなものを感じたんですよね。

原作小説は、自身の欲望を解放した男がそれに呑まれて破滅する話。対して極上文學は、暴走する欲望と、無垢で善良な人間の本性の話に感じました。生まれた時は無垢で善良だったのに、成長するうちに欲望にまみれる人間の愚かさというのも感じたんですけど、同時に、欲望に飲み込まれた果てにも、それを止めようとする一筋の善性は残っているんだという希望、強い性善説にも感じました。
ハイド、良かったね……。


・「後継者」が変身薬を飲むか否かの選択を迫られるのがよかったなあ。私はジキルのように破滅したくないから飲みたくないとは思うけど、でもこう、実際理性や倫理を失ってメチャクチャやりてえ〜っていう気持ちはありますよね。


・具現師の方たちもすごく素敵でした。開演前のパフォーマンスもよくて、とっても楽しいひとときを過ごすことができました。


・アターソン役の塩田さんの容姿が個人的にメチャクチャ好みで、初登場の瞬間からもう完全に優勝でした。扉の奥に佇むアレ。良い。最高。お声も良い。どこから見ても最高のお姿で大変な眼福でした。


・ジキル役の梅津さん。アシンメな前髪が良かったな。左の方を向かれると前髪でお顔が隠れて見えなくなるので、その向きで言っている台詞にはなにか隠し事があるのかなと思ったり、逆に右側を向いてお顔が見える時は本性を表してるのかなとか、などなど深読み(邪推)できて楽しかったです。


というわけで、とっても楽しい舞台でした!! この公演のことは別作品(フランケンシュタイン-cry for the moon-)を見に劇場に来た時にたまたまポスターが目に入って知ったんだけど、いいもの見たな〜。推し文学の翻案を見る行為はこれだから楽しい。
ありがとうございました!

【感想】フランケンシュタイン -cry for the moon-

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舞台「フランケンシュタイン-cry for the moon-」

 

この記事は、メアリー・シェリーによる1818年の小説『フランケンシュタイン』が大好きなオタクによって書かれた、舞台「フランケンシュタイン - cry for the moon-」の感想文です。原作小説のオタクゆえに役者さんや演劇のことには疎いので、なにかトンチンカンな事を言っていてもご容赦くださいな。

 

 

※この記事には「cry for the moon」の重大なネタバレがメチャクチャ含まれますので、気をつける人は気をつけてください。今すぐ劇場に行かれるかBlu-rayを手配するのがオススメです。

 

 

 

まず初めに。

この「フランケンシュタイン」に出会うことができて、とても良かったな……と思いました。本公演に携わられた全ての方々に感謝します。

 

 

七海ひろきさん演じる怪物……無垢なあの子を「怪物」と呼ぶのが心苦しいので、私がいつもフランケンの話をする時に使っている「被造物」という単語*1で呼んでいいですか? 呼びますね。被造物の中性的な雰囲気がよかったです。人造人間ゆえの不確かな印象もあり、でも純真な少年のようにも感じ、とてもいい塩梅だったなと思いました。七海さんは宝塚ご出身の方なんですね。大変素晴らしかったです。文句なしのMVP。

 

 

 

冒頭、被造物が目覚めるシーンが良かったです。このシーン、被造物を作り出す「恐ろしい装置」は衝立の向こうに隠れて最後まで見えないのがね、いいですよね。原作小説でも、被造物の製造方法はぼかされていますし。

生命を与えられて被造物が蠢く姿を見ていると、衝立が子宮のようにも見えてきてよかったです。*2

 

 

そういえばこの作品、被造物創造の舞台はスイスなんですね。原作ではスイス出身のヴィクターが、留学中のインゴルシュタッド(ドイツ)で被造物を造っています。「cry for the moon」ではビクターが一度「博士」と呼ばれてた気がするので、もしかしてこのビクターはすでに卒業して、博士号を得ているのかな。分からないけど。原作の方はとにかく時間経過や場所の移動がたくさんあるので、2時間の舞台に収めるならスイス1箇所に場所を絞ってある方がスムーズでいいですね。

 


スイス料理の知識がラクレットチーズしか無いので、酒場のシーンで「ラクレット」と出てきてにっこりしました。

 

 

 

ビクター。ビクターもとても良かったです。

彼はなんというか、完璧主義というか、「完璧でなくてはならない」という強迫観念のようなものが根底にあるのかなあ、と思いました。

莫大な資産を誇る名家の長男に生まれたビクター。お父さんはすでに亡くなり、若くしてフランケンシュタイン家を背負わなくてはいけなくなった重圧やら義務感やらにがんじがらめにされていたりしたのかな。

ウィルを治さなきゃと思い詰めたり、ジュスティーヌが殺人を犯したのは僕のせいだと自分を責めたりしたのも、その責任感から来たのかもしれない。2人目の被造物を殺したのも、「ちゃんと造ることができなかった」という思いがあったりしたのかな。

いつの間にか止まれなくなってしまって、でも最後に被造物を抱きとめてくれてよかったです。

 

 

 

エリザベス。

エリザベスが悪役な感じでびっくりしました! 「cftm」の被造物がずっと無垢であることができたのは、原作における被造物の悪事を彼女が担っていたからなんですよね……怖かったね……ただ、きっとエリザベスも「生まれながらの怪物」ではなくて、生まれた(貧しい)環境のせいで「怪物になってしまった」存在なんだろうな。彼女はとても悪いことをするけれど、どこか哀れな人だなあと思いました。

 

 

 

被造物

この舞台の被造物は、人を殺してないんですよね……! ド・ラセー一家に拒絶された時も故意には反撃せず、ビクターに伴侶を殺された時だって、一度は「ビクターの恋人を殺す」とは言うものの、ついぞエリザベスに手をかけることはしなかった。彼が、人間への愛を貫き通したからこそ、あの幸せなラストシーンに至ることができたんだろうな。

 

 

 

アガサ

アガサ、すごく……! すごく良かった……!

アガサ役の彩凪さん、この方も宝塚ご出身の方なんですね。凛として、芯の強い、とてもかっこいい女性を演じられていて大好きになりました。

被造物とアガサの絡みはとても心が温かくなりました。「はだしさん」と名前をつけて、服を着せてあげたり、本を借りてきてくれたり。舞台中盤の2人があまりに幸せすぎて、このあと起こるであろう展開を知っている私は「もうここで終わりにしよう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(泣)」と何度も暴れそうになったことか。(じっとしてました)

最後まで見て本当に本当に良かったです。

 

 

 

ジュスティー

ジュスティーヌがすごく好きでした。愛嬌があって素敵だった。ので、冤罪にかけられて処刑されてしまうのは心が痛かったな。

首を吊られるまさにその瞬間まで舞台上で行われるのが怖くて、そこまで見せる必要ある!?って怯えてしまったんだけど、その後、被造物の伴侶が目覚めるシーンを見て納得しました。


ジュスティーヌの脳を使って作られた女性版被造物。彼女は人間への憎悪に取り憑かれ、周りの者を攻撃する。七海さんの方の被造物は無垢な状態で目が覚めたのに、どうして女性被造物の方はこうなってしまったんだろう?

きっと、人造人間は、周りから与えられたものを反射する鏡だからかな、と思いました。私は「フランケンシュタイン」の被造物のことを鏡だと思っているんですよね。優しくされたら優しさで返すし、憎悪を向けられたらやがて憎悪で返すようになる。七海被造物が無垢な状態で生まれたのは、まだ多くを吸収していない子どもの脳が使われたからなのかな。一方女性被造物に使われたのはジュスティーヌの脳で、彼女は、人間に陥れられて言われもない罪で糾弾され、殺されてしまう。*3人間からの憎悪をスポンジのようにたっぷりと吸ってしまっていたから、女性被造物は人間への憎悪を抱いてしまったんだろうか。

ジュスティーヌの明るさは舞台での癒しでした。ありがとうございました。

 

 

 

ウィル

ウィル、可愛かったですね〜!

被造物との絡みがとてもよかったです。ともだち……。

原作だとウィルは一目見て被造物を嫌悪するので、「cftm」のウィルと被造物の関係性はとてもよかったです。

ウィルって、ナポレオンのことが好きなんですよね。冒頭の酒場で出てきた労働者たちはナポレオンのことを嫌っていたけど、ウィルは純粋に「かっこいいから」と持ち上げてるんですよね。

そんな風に、人種や所属なんて関係なく「そのひと自身」を見てくれるウィルだからこそ、被造物の右腕を褒めて、彼のこと好いてくれたのかなあ、と思いました。

ウィルと被造物が一緒にいた時間はとても短かったけど、被造物がずっと彼のことを大切な存在として数え上げていたのがグッときたし切なかったですね。ウィルって、被造物の姿を見ても受け入れてくれた初めての存在感だもんね……。

 

 


被造物とビクターについて

原作の『フランケンシュタイン』というのは、ヴィクターと被造物がお互いへの復讐を繰り返して、両者ともが「怪物」に成り果てる悲劇だと思っているんですけど。この「cry for the moon」のビクターと被造物は、ふたりが「人間」になるお話なのかなあって。

被造物は、誰も殺すことなく人間を愛し続けた。ビクターも、最期には被造物を息子と認めて愛することができた。

ビクターと被造物が親子のように会話をするシーンでは、胸がいっぱいになりました。

良かった……。

 

 

 

被造物とアガサについて

盲目の娘アガサ。原作では盲目なのはド・ラセーおじいちゃんなので、なぜアガサの方を盲目にしたのだろう?と思いながら「cftm」を見ていました。

被造物とアガサが、「恋人」のように共に過ごしているのを見て、ああだからアガサが盲目なのか……! と思いました。

私は「フランケンシュタイン」の被造物に幸せになってほしい読者なんです。ヴィクターと和解してほしいし、せめて伴侶を得て幸せになってほしい。舞台や映画、「フランケンシュタイン」のさまざまな翻案を見ては、毎度打ちのめされて帰ってくるわけなんですけど。

なので、ラストシーンが本当に心に刺さりました。なんて優しい世界。私がずっと見たかった光景がそこにあって、もう大泣きしてしまいました。

被造物と、ド・ラセー家の和解。これは、「cftm」にしかできない事だな……と思いました。原作の被造物は、ドラセー家に拒絶されたあと、人間への憎悪を抱くようになります。ドラセー家が逃げて空き家になった家には火をつけて焼き尽くし、その後ヴィクターと親しい者を何人も手にかけてしまいます。

原作の被造物は、ドラセー家との一件を皮切りに「怪物」になってしまうんですが、一方で「cftm」の被造物は、決して人を傷つけようとしなかったんですよね。ドラセー家に拒絶された時も、「ごめんなさい」と言って逃げるだけ。ウィルとも友達になり、エリザベスのことも殺そうとしなかった。

だから、ドラセー家と再会するこのラストシーンは、どんなに人間から傷つけられても「怪物」ではなく「人間」であり続けた、世界で一番優しい彼への贈り物だったんじゃないかなって。

 


「cftm」は、厳しいけれどもとても優しい「フランケンシュタイン」だったなあと思いました。この「フランケンシュタイン」に出会うことができて本当に良かったです。本当に……良かった……!!

 


Blu-rayを予約したので、また見返すのが楽しみです。

いいもの見ました。ありがとうございました。

 

 

 

おまけ

フランケンシュタイン」系作品ログを久々に更新しておきました。

 

 

 

 

 

*1:「怪物」という悪い意味の強い単語に比べて、「被造物」は中立的な響きで好きなんです

*2:ナショナルシアター版「フランケンシュタイン」の、被造物が子宮のような舞台装置から出てくる演出が印象に残っているのでそう見えたのもあるかも

*3:これは大学時代の教授の受け売りなんですけど、歪んだ正義で殺されてしまうジュスティーヌ(Justine)が、正義(justice)と似た名前なのほんとひどいですよね……

「デカダンス」に出会えてよかった

オリジナルアニメーション作品「デカダンス」を観ている。

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全12話の作品だが、11話(執筆時点での最新話)まで観て、この作品に出会えて良かったなあと心から思ったので、この気持ちを書いて残しておくことにした。

 

主人公二人の関係性の尊さ。

主人公二人と、彼らの親友たちとの関係性の優しさ。

作品が打ち出すメッセージの愛しさ。

 

主にこの3つに心を奪われました、という日記です。

 

はじめに

 

デカダンス」の視聴を始めたのは、姉に勧められたことがきっかけ。

主人公の男と少女のバディが良いよ、と聞いたので。

 

ただものすごく腰が重いので、視聴を始めたのはアマゾンプライムビデオで9話が配信された頃。遅いな。

まず1話を観る。次の日、2話を観る。それから止まらず、その日のうちに9話まで観る。約一週間後、10話が配信されて観る。数日後、今度はテレビの最速放送を録画して11話を観る。視聴後、ものすごい満足感に包まれ、現在に至る。

 

 

カブラギさんとナツメちゃんの関係性

カブラギさんとナツメちゃんが好きだ。

お互いの存在を肯定する、優しい関係性が大好きだ。

 

 

まず、冒頭3話。

ナツメちゃんに救われるカブラギさんが良い。言語化しようと内容を思い返していたら泣きそうになってきた、あかんあかん。

 

ギアたちもタンカーたちも、システムに管理されて縛られている。そんな中で、バグであるナツメちゃんはシステムの管理外にあり、息苦しい世界の中でこの上なく自由な存在だ。カブラギさんにとってなんて眩しい存在なんだろう。

 

カブラギさんは、ひとの心が分かる優しいひとだ。マイキーがバグとして処分されてしまったことは、彼の心にずっと重くのしかかっていたのではないだろうか。

 

そんな彼にとって、「バグ」であるナツメちゃんが自由に、明るく生きていることは、どれだけ彼の心を救ったのだろう。

いや実際めちゃくちゃ救ったんだよ。彼に生きる希望を芽生えさせる程度には。

 

「あの子に救われたんだ」ってまっすぐな言葉が胸に沁みる。いつか本人に伝えてくれないかな……というのが、3話鑑賞時点での祈り。

 

一方ナツメちゃん。

彼女の義手。親しくない人からはあからさまに揶揄われ、親友のフェイちゃんですら、それを弱みだと思っている。戦士になりたいという願いも、あらゆるひとから否定されてしまう。

 

そんな中で、カブラギさんはナツメちゃんの「戦士になりたい」という想いを肯定してくれる。彼女が「弱み」だとついに口にしてしまった義手でさえ、「お前の武器だ」と意味を与えてくれる。

 

ナツメちゃんが周囲に否定されてきてたものを、カブラギさんが一つずつ肯定してくれている。最高だ……

 

 

カブラギさんはナツメちゃんに救われ、ナツメちゃんはカブラギさんに救われている。

お互いを救い合ってしまうこの関係性がなんて尊いのだろう。ここまで3話である。3話!?

 

 

そして5話。

「俺はそのバグに救われたんだ!!(クソデカ大声)」

 

頭を抱える。

 

だからそれを本人に言ってほしい。この距離ならワンチャン聞こえてないか? ないか。

 

ガドルを倒し、雨のように降り注ぐオキソンを浴びるカブラギさんがとてもかっこいい。カブラギさんのキャラデザが好き。ちょっと眉が切れてるのがいい。

 

 

「世界にバグは……必要だ」

 

頭を抱える。

 

強い男が好き。大切な人ができて弱くなってしまう、強い男が好きだ。

反対に、大切な人のおかげで強くなる女の子も好きだ。

 

 

この二人は、お互いへ向けるやわらかな感情がとても良いなと思う。

 

ナツメちゃんを見るときのカブラギさんの優しい眼差しが良い。

バグ矯正施設に送られて、ナツメちゃんの無事を聞いた時のカブラギさんの、心の底から安堵したような表情とか。

再会後、ガドル工場への同行をナツメちゃんが二つ返事で了承してくれた時の、カブラギさんの優しい眼差しがたまらない。眩しそうに目を細めるようにも見える。

 

世界の真相を知った時のナツメちゃんの反応には心がちぎれそうになったけれど、カブラギさんとの日々を思い出して、再び信じてくれるのが嬉しくて泣けてしまった。

 

二人が過ごした時間にありがとう。

この二人が出会ってくれてよかった。私も、この二人に出会えてよかった。

 

 

フェイちゃんとミナトさんについて

私が心奪われたポイントその2、主人公二人と親友たちの関係性。

 

ナツメちゃんとフェイちゃん、カブラギさんとミナトさんの関係性って似てるなあと、視聴しながら思った。

フェイちゃんもミナトさんも、主人公たちの選ぶ道に賛同できず、突き放す。見ていてとても苦しい。

けれど、彼らが主人公たちを突き放すのは、ひとえにナツメちゃんやカブラギさんを大切に想うからこそなんだ。

 

大きなことなんて望まなかった。ただ、大切な人がそこにいてくれたらそれでよかった。

けれどナツメちゃんやカブラギさんは、自分が傷つくことを厭わず、どんどん危険な道へ行ってしまう。フェイちゃんとミナトさんは、それが辛くて、理解できないとその手を離してしまう。

 

それでも、最後にはまた彼らの手を取ってくれるのがよかった。ナツメちゃんがフェイちゃんを抱きしめるのがよかった。

「お前と一緒に戦えたらそれで良かった」と言って道を違えたミナトさんが、11話で再びカブラギさんと共に戦った時の、あの笑顔がものすごくよかった。ミナトさんが笑ってくれてよかった。本当によかった。

 

この作品は、主人公であるカブラギさんとナツメちゃんの関係性が尊いのは言わずもがな、カブラギさんとミナトさん・ナツメちゃんとフェイちゃんという、主人公とその親友との関係性もとても優しくて良いのが凄いと思う。大好きだ。

 

 

人間の愛しさ

心を奪われたポイントその3、この作品のメッセージ性。

11話を見て、本当に満足感に包まれた。

 

生きるとは何か。

オープニングの「何も望めないのは生きてないと一緒だ」が胸に沁みる。

全てをシステムに決められて従うギアたちには自由意志がない。システムが「バグ」と呼ぶギアたちの意思、不確定要素にこそ意味があり、それが生きるということである。

 

この、バグを肯定する方針がすごく良いなあと思った。全てを制御しようなんて傲慢だ、というジルの言葉に愛しさを感じてしまった。

人間や、それに限らず生命の可能性というものは、人間が制御できる範疇をきっと遥かに超えている。

バグを肯定することは、人間を肯定しているようで、見ていてすごく気持ちが良かった。

 

 

おわりに

本当に、すごく良い作品に出会えたなあ。

 

次回、最終回、カブラギさんとナツメちゃんの行き着く先を見届けたい。

この作品ならきっと良い結末に辿り着いてくれるだろうという確信があるので、安心して見届けようと思う。みんなが幸せになりますように。

 

デカダンスに感謝。

「天保十二年のシェイクスピア」佐渡の三世次について考える

先日鑑賞した劇「天保十二年のシェイクスピア」がとても面白かった!

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舞台を観てきた興奮のままに、すでに一度感想を書いた。


上に貼った記事でも高橋一生演じる佐渡の三世次(さどのみよじ)の話が多くなったんだけど、彼についてさらに考えたくなったので、原作の戯曲『天保十二年のシェイクスピア』(井上ひさし)を読むことにした。

通販等で手に入れるのが難しそうだったので、思い切って国立国会図書館を利用してみることに。(人生初利用!)

戯曲を読んで、改めて物語……主に佐渡の三世次に思いを巡らせたところ、色々思うところがありすぎて感情が溢れてしまったので、またブログにまとめることにした。

 

2020年の舞台について、戯曲を補助として使いながらという感じで佐渡の三世次についての自解釈と感想をつらつらと書いていきます。

 

目次

 

 

佐渡の三世次とリチャード三世

 

天保十二年のシェイクスピア』は、シェイクスピアの劇全37作品の要素を盛り込んでいる。

リア王』や『ロミオとジュリエット』などのように、明確に筋書きが利用されているものもあれば、『ヴェニスの商人』のように一言だけの言及で済んでいるものもあり、その要素の取り入れ方は様々だが。

 

さて、そんな中で佐渡の三世次はリチャード三世(『リチャード三世』)やイアーゴー(『オセロー』)といった、シェイクスピア劇の複数の'悪役'の要素が混ぜ込まれたキャラクターとなっている。その中でも、私が把握できる範囲で*1一番重要、三世次の根幹に強く影響を与えているのはリチャード三世の要素だと思う。

 

リチャード三世は、せむしで手足の長さが不揃い、足を引きずって歩く醜い男。イングランドの王座を獲得するために兄弟、政敵、腹心、女子供をも手にかけた大悪党*2

……大悪党なのだが、彼は生まれついての悪党ではない。生まれ持った醜さのせいで、実の母をはじめとして誰からも愛されなかったから次第に心が歪んでしまった、愛を得られなかった哀れな怪物というのが私の解釈するところのリチャード三世だ。

 

そういう情報をヒントにして「天保十二年のシェイクスピア」を見ていると、佐渡の三世次にも何かそういった、「怪物になった男」という側面を感じてしまう。

 

高橋一生さんの三世次観

 

2020年版舞台のパンフレットには高橋一生さん・浦井健治さん(王次役)・唯月ふうかさん(お光/おさち役)の座談会が収録されていて、そこで一生さんが三世次について話している。ありがたい。

佐渡の三世次について考えるにあたって、演者さんの話も参考にさせてもらおうと思う。

 

一生さんいわく、三世次は上に登っていきたい人というよりも、一直線に死に向かっている人。生き切って死ぬために、常に死に場所を求めている人。

もともと自分の存在自体が悲劇なのだから、この悲劇をとことん利用して、どれだけ世界に復讐できるかを試している人。

 

 

なるほどなあ。

三世次は権力を欲しているというより、ただ生きようとしているだけなのではないか。姿が醜いうえに無宿者という絶対的弱者であるのを、この世をかき乱して価値観をごちゃまぜにすることで、相対的に浮き上がろうとしている。

彼は物語の中で悪徳の限りを尽くすのだが、そうでもしなければ息ができなかったのだろう。

 

本編から三世次を考える

三世次の生い立ち:三世次の求めるもの

 

さて、ここからは「天保十二年のシェイクスピア」本編に沿って考えていきたい。

 

戯曲『天保十二年のシェイクスピア』には三世次の外見についてト書きがある。

それによると、三世次は三十才そこらのせむし男。左足を軽く引きずっていて、顔の右半分は火傷の跡がてろてろと光っている。

 

三世次は初めて舞台に姿を表したとき、まず自身の生い立ちを語る。

 

三世次の父親はかつて清滝村で小前百姓(土地を所有している百姓)をしていたが、饑饉(ききん)やなんやかやのせいで没落し、抱え百姓=土地を持たず、土地を借りることもできず、ただその日の稼ぎでなんとか生き延びる無宿者になってしまう。

 

突然その息子の三世次も無宿者として生まれる。

 

彼が言うには、幼い頃、橋の下のじめじめしたむしろの上に寝かせられていたせいで彼はせむしになってしまった。

十五の時に無宿人という理由で石川島*3に送られるが、そこで油鍋をかぶって顔に火傷を負う。しばらくして佐渡島に移され水替人足をやるが、そこで水桶を足に落としてしまい左足が不自由になる。

つらい仕事に耐えかねて仲間とともに島から逃げ、博打で路銀を稼ぎながらこの清滝村にやって来て、今に至る。

両親はすでに亡く、二人の妹とも幼い頃に生き別れたきり。無宿・無縁・無職の身である。

 

なかなか壮絶な人生だ。

 

この三世次の語り口から、両親への恨み……とまでいかなくとも、良くない感情が見える気がする。

三世次がせむしになったのは、幼い時の環境のせい。

三世次が無宿者になったのは、無宿者だった父親のせい。

「おかげでこのおれも親父の後を継ぐ無宿者だ」という語調が、ある種親を責めている雰囲気が出る。

 

人が生まれて最初に接するのは大概その人の親で、三世次は親からよい遺産をもらえなかった。三世次の世界に対する憎しみは、彼の両親に端を発するものなのだろう。

 

 

しかし、三世次は両親に対して憎しみとは相反する感情も抱いているように見えるのがまた、味わい深い。

 

佐渡ヶ島から逃げ出した後、三世次はいつのまにか清滝村へたどり着くのだが、それについて三世次はこう語る。

 

故郷へ寄るようでは、(略)おれもずいぶん気弱になっているんだな。

 

三世次はなぜ故郷の清滝村に帰ってきたのだろう?

前述のとおり身寄りの無い三世次は、たとえ故郷に帰ってきたところで何かツテがある訳でもない。

それでも清滝に寄ってしまったのは、そこが彼の故郷だからという感傷的な理由に他ならないのではないか。

自分は無宿無縁だと分かってるはずなのに、もういない家族の面影を求めて故郷に帰ってきてしまう、それを三世次は「ずいぶん気弱になっている」と語ったのではないか。

 

三世次は、自分の身内、自分を愛してくれる人間というものを、心の底では求めているのかもしれない。

 

 

きたないはきれい:三世次の戦法

 

三世次は清滝に着いて、紋太・花平両家の争いのことを聞くと、双方のいがみ合いを募らせることを思い立つ。漁夫の利によってその身が「どこかの浅瀬へ浮びあがる」ことを期待して。

 

その前祝いとして三世次は女郎を買うことにするのだが、女郎が三世次の醜悪な姿を見てひるむと、三世次はこれに平手打ちをする。(というト書きがある)

 

三世次の醜さは生きていく上で大きなハンデであり、三世次はそれに強いコンプレックスを抱いているのだろう。

自分が醜いと認識している三世次は、きっと自分のことが嫌いだ。

 

その後三世次は「三世次のブルース」を歌う。(余談だが、戯曲のト書きだと「詠誦(えいしょう/詩歌を声に出して読むこと)風に歌う」と書かれている。言葉を読むように歌を歌うのは、「ことば使い」の三世次らしくて良いよね)

 

だからおれは 平和も戦さも嫌いさ

平和と戦さの ごちゃまぜが好きさ

きれいはきたない きたないはきれい

平和は戦さ 戦さは平和

この混沌にしか おれは生きられぬ

すべての値打を ごちゃまぜにする

そのときはじめて おれは生きられる

すべてを相対化したとき

おれははじめて行くのだ!

 

すべての値打をごちゃまぜにしたときに初めて生きられる」とはどういう事だろうか?

 

歌に何度も出てくる「きれいはきたない きたないはきれい」というフレーズが、この歌を読み解く手掛かりになる。これはシェイクスピアの戯曲『マクベス』に出てくる有名な台詞だ。

 

このフレーズについて調べたところ、参考になる記事があった。

つまるところ、何が美しいとか何が醜いかというのは、それを見る人の視点によって変わってくるということだ。

ブタにはブタが美しく見えるし、ロバにはロバが美しく見える。

善人にとっては美しく思える行いも悪人にとっては醜い行いに見えるだろうし、逆に悪人にとって美しく見える行いは善人にとっては醜い行いとなるだろう。

価値観というのは絶対的なものではなく、移ろいやすい相対的なものである。

 

だから三世次は自分の醜さ・社会的弱さを克服するために、この世の価値観を操ろうとしているのではないか。

いま自分が社会のどん底にいるとしても、自分よりさらに貧しい存在が現れたら、相対的に自分は豊かだと言える。自分より醜い者があれば、自分はそれよりも美しいと言うことができる。

「すべてを相対化したとき/おれははじめて行くのだ!」とは、そういうことではないだろうか。

 

三世次はこの世をかき乱すことで、はじめて生を得ようとしているのだろう。

 

 

女と三世次:三世次の自己評価

 

三世次は清滝の老婆に預言を受けるのだが、「女が鬼門だ」と言われたときにそれを笑う。

女? このおれがか? 傴僂(せむし)で、足が悪くて、顔に火傷のある、このおれが? あんまり笑わせちゃいけねぇぜ。

このセリフから伺える三世次の心境がつらい。

自分が醜いと認識している彼は、自分が女性から愛されることを諦めているのだ。

 

前述したように、三世次は自分の家族……自分を愛してくれる存在を欲している。しかし、三世次の低い低い自己評価がそれを諦めさせている。

 

話が進むにつれ、彼は権力を手に入れることによって、自分も誰かに愛されることができるかもしれないと思い始めるのだが……その話はまた後ほど。

 

 

余談①エモ

三世次がお里と幕兵衛の一派の前に初めて姿を現す時、「朝の光を背にしてせむし男が立っている」みたいなト書きがあってなんだか良いなと思った。それだけです。

 

余談②ふくろう

三世次がお里と幕兵衛の一派に仲間入りしようと試みる場面で、幕兵衛は三世次のことを「あの男は梟(ふくろう)のように暗やみでも見える目も持っているらしい」と言う。

ふくろうと三世次の関連付けで、先に挙げたリチャード三世のことを思い出した。

リチャード三世は、戯曲『リチャード三世』の前日譚にあたる『ヘンリー六世 第三部』にも登場するのだが、そこで敵であるヘンリー六世に「お前が生まれた時にはふくろうが鳴いた、不吉のしるしだ。」という風な事を言われている。

シェイクスピア劇においてふくろうは不吉のサインなのだろうけど、幕兵衛のこの台詞を聞いてそんなことを思い出したのだった。

 

余談③王次

天保〜』のト書きによると王次って18歳なんですね!? 若いな〜。浦井さん、とてもかっこよかった。

王次はにせ亡霊から父親の死の真相を聞くと、

「ものには二面、表と裏があるんだな。表がほんとうか、裏がほんとうか、おれにはもう見分けがつかなくなっちまった。」

と言う。自分には優しい母は実は悪党で、自分には頼もしい叔父も悪党だった。視点によってものごとの評価が変わる、価値観が揺るがされるのは、三世次の「きれいはきたない」に通ずるところだなあ、と戯曲を読んでいて思った。

 

 

三世次とお光①:嫉妬

余談が長くなった。失礼。

さて、女性から愛されることを諦めている三世次でも、お光に恋をしてしまう。

 

「王次よ、どうしてあんたは王次なの」の場面。

2020年版舞台では、王次とお光が恋に落ちるのを屋根の上から三世次が眺めている。(戯曲だとこの場面に三世次は不在で、イチャつき始めた王次とお光を手下たちが殺そうとし、幕兵衛たちが登場してそれを止めたときに、やっと三世次が登場する)

三世次が惚れているお光が王次とイチャつくのを、わざわざ三世次に見せつけるのである。演出家は人の心が無いのか。(あるよ?)

 

代官が到着したとこで両家が一時停戦し、王次とお光がくっつくと、三世次は一人になった舞台上でこんなことを言う。

 

おれの書いた筋書どおりに王次は脳天気になった。そこまではよかったがその後はどうも万事がぐりはま。それというのもどいつもこいつも阿呆なせいだぜ。ちっ、今年は阿呆の当り年かね。阿呆どもの平和なぞ犬に喰われてくたばるがいい!

 

「三世次の書いた筋書」とは、どこまでが筋書だったのだろう?

三世次はにせの亡霊を立てて王次に父の死の真相を知らせた。だが、王次とお光の恋は想定外のことだったのではないか?(それも予想どおりだったらもうすごいよおまえ)

お光は王次と出会う前に、お里の一派に会っているはず。つまり、そこで三世次にも会っていた可能性がある。三世次はそのとき、お光に惚れてしまったのではないか?

 

とすると、自分の惚れた女が他の男に惚れ、あまつさえイチャイチャしているのを見るのはどんな気持ちだったのだろうか。(演出家人の心がない) 引用した台詞の後半は、一時停戦の両家を指してもいるのだろうが、お光と王次の恋をねたんでいるようにも聞こえはしまいか。

 

地獄の片思いの幕開けである。

 

 

三世次とお光②:本気

 

三世次は、お里にお光*4殺しを命じられるが、そこで三世次が躊躇するとお里に恋心を勘づかれてしまう。

 

お里:まさかおまえそんな躰で、そんな顔で、お光に岡惚れしてるんじゃないだろうね。

三世次:うぐ……

 

「ことば使い」であるはずの三世次が、恋心を指摘されてうめき声しか出すことができない。

そんな醜い容姿のくせに女に愛されることを望んでいるのかというのは、三世次本人が自分に対して一番強く思っているだろう。それは、他人には一番突かれたくない弱点だったのではないだろうか。

 

お里:(略)いくらなんでも好きな女を殺れとは、あたしにゃ言えない。いいともさ、そんならあたしがお光におまえの気持ちを伝えてやろうか。

 

  三世次はお里をまともに見据える。いまにも血が吹き出しそうな恨みのこもった眼。やがて三世次は首を横に何度も振る。

 

三世次:それだけはよしておくんなさい。

お里:本気でお光に惚れてるんだね。

 

お光に恋心を伝えてやろうか、という言葉に、三世次はまたも沈黙する。ことば使いらしくもない。

問題なのはこのト書き、ト書きである。

お光に恋心を知られたとして、返事はわかりきっている。しかし、本気で惚れた女から投げつけられる拒絶と侮蔑の言葉は、きっと三世次の心を粉々に砕いてしまうだろう。

お里の言葉は三世次の一番いやな所を突いている。三世次は得意のことばでかわすこともできず、沈黙し、ただ恨みのこもった目で見ることしかできない。

 

三世次〜(涙)

 

 

三世次がお光(おさち)殺しに失敗したとき、三世次は次の台詞を言う。

 

このおれがどじを踏んだのか……。(ぐいっと宙を睨み)ちがう、運命がお文とお光の場所を入れかえてしまったのだ。(略)運命よ、うめえ細工をありがとうよ。

 

お光(おさちだけど)が生き延びてくれたのが嬉しい三世次は、ここでやっと言葉遊びをして、ことば使いとしての力を取り戻したのだろうか……

 

三世次〜〜(涙)

 

 

三世次とお光③:わたし殺し脈無地獄

 

王次が死んだあと、三世次の脈なし片思い記が続く。

 

三世次がお光に惚れていることは、花平一家の台所の女たちのうわさになっている。この時点でつらい。

三世次は暇さえあればお光(王次が死んで塞ぎ込んでいる)の離れのまわりをうろつくのだが、お光は三世次の姿を見ると障子を閉め立ててしまうのだ。つらいポイント。

そしてそれを幕兵衛に指摘されると、三世次は「(苦笑して)へえ、まあこんなできそこないの恰好をしてますんでね、どなたにも嫌われます。」と言う。つらいポイントのバーゲンセールか。

王次が忘れられないと言うお光に三世次が慰めの言葉をかけると、「お光は露骨にいやな顔になり、三世次に背を向ける」というト書き。

幕兵衛が投げたお光の櫛を三世次が拾いにいこうとすると、お光は「いいよ。自分で拾うから。」と一蹴する始末。地獄か。ここは地獄なのか。

 

本気で好きな女から嫌悪を向けられる日々で、三世次の中では自己嫌悪が募っていったのではないだろうか。

 

ここで興味深いのが、この後の清滝の老婆との再会である。

再会した老婆は「自分で自分を殺さないかぎり」運命が三世次を押し潰すことはないと預言をする。

しかし、このときの老婆は三世次以外には見えていないのだ。

 

普通に考えればそれは老婆の神通力によるものなのだろうが、もしかするとこのときの老婆が、三世次の幻覚であった可能性も考えられないだろうか。

三世次の中のもうひとりの自分、三世次の自覚できない深層心理が、老婆の形となって三世次の目に映ったのだとしたら? そうすると、老婆の「自分で自分を殺さないかぎり」という言葉に違う意味が見出せはしないか。

するなと言われたらしたくなるのが人間の性だ。

自分で自分を殺さないかぎり」という言葉には、お光に嫌悪を向けられ続けてじわじわと膨れ上がった三世次の自己嫌悪、ともすれば自殺願望が表れているのではないか。

 

 

三世次とお光④:もう1枚の鏡

 

ある日三世次は、とうとうお光に夜這いをかける。

 

……戯曲を読んで衝撃的だったのだが、この場面で三世次、自分のいちもつが立派であることを生々しく言葉で説明するのだ。(2020年版舞台では言ってたっけ…………??)

 

読んでしばらく衝撃を受けてたのだけど、冷静に考えると切ない台詞に聞こえてくる。「おまえはおれの躰が醜いできそこないだと思ってるだろうが、おれの躰だって捨てたもんじゃないんだぜ」とお光に訴えているようでなんだか泣ける。

 

しかし、前項の脈無地獄のあとで受け入れてもらえるはずがなかったのである。

 

お光:な、なにをするの!

三世次:好きなんだよ、お光。

お光:おどき、せむし!

三世次:こんなときに月並みなことをいうようだが、いいじゃねえか、使って減るもんでもなし……

お光:けだもの!

三世次:け、けだもの?

お光は短刀を手に取る。

お光:そうだよ、おまえはけだものさ!

 

  お光、三世次の瘤(こぶ)に短刀を突き立てる。(略)

 

三世次:いやにはっきりと、そして早く色気のねえ返事を出してくれたな。単刀直入ってのはここから来たのかね。お光、瘤をいくらつっ突かれてもこっちは平気だが、このままじゃすまされねぇ。(略)

お光:けだもの、けだもの! おまえを受け入れるぐらいなら死んだ方がましだ。

三世次:よし。それならおまえの瞼をこの短刀で永遠に縫い合せ、閉じ合わせてやるぜ。

 

「瘤をいくらつっ突かれてもこっちは平気だ」とは、文字通り「瘤を刺されても大した怪我にはならない」という意味でもあるだろうし、また「醜い容姿を罵られるのは慣れっこだ」という意味でもあるだろう。お光は三世次をせむしだと罵るだろうが、三世次は自分のあれがお光を悦ばせられるという自信がある。

だからお光に「せむし」と言われたときも平然とかわしている。

 

しかし、お光に「けだもの」と言われたとき、「け、けだもの?」と三世次はうろたえる。「せむし」と言われた時と違って三世次はおうむ返しをするに留まり、ことばを上手く扱えていない。

なぜならその言葉が、三世次の外見ではなく行動を責めているように聞こえたからではないか。お光を強姦しようとする行為、ひいては今までに成してきた悪行を責められているように聞こえたのではないだろうか。

 

のちに三世次を殺すのは、三世次自身の良心(罪悪感)に他ならない(おさちは鏡を見せることで三世次の罪悪感を呼び覚ました)。ここでの三世次の動揺は、お光の「けだもの」という言葉で、わが身を一度振り返ったからではないだろうか?

 

思い返してみれば、「間違いつづきの花の下」でお光とおさちが初めて出会ったとき、おさちはお光を見て「自分がオランダ鏡を見ているのかと思いました」というような台詞を言っていた。

この夜這いの場面でも、お光は目の前の人物にとってのとなったのかもしれない。

 

ただしこの場面での三世次の動揺は長くは続かない。

お光が「おまえはけだものさ!」と言いながら三世次のこぶを刺したことで、三世次は「けだもの」も三世次の外見(行動ではなく)を指した言葉だと解釈したのだろう。三世次は平静を取り戻したので、「単刀直入ってのは〜」とまたことばで遊び始めているのか。

結局、三世次はお光を殺してしまう。

 

三世次が鏡を見て身を滅ぼすのは、もう少しあとの話だ。

 

 

余談④続く自己嫌悪

 

三世次は、自分を拒絶したお光を殺してしまう。

初登場の場面で彼が、自分の醜さにひるんだ女郎を平手打ちするのと似ている気がした。

醜悪さゆえに自分を拒絶する女へのうらみか。

三世次は権力を手にして社会的強者になったように見えて、その中身はいまだその自己嫌悪から抜け出せていないのかもしれない。

 

 

三世次とおさち:情欲か、それとも

 

三世次は代官茂平太を殺し、その妻であるおさちを口説きにかかる。それに成功した(三世次は成功したと思っている)のを見て、三世次は「おれは自分で考えているほど醜くねぇのかもしれねえぞ」と言う。

ますます大きな権力を手にし、三世次は「三世次のブルース」で歌った価値観の破壊についに成功した、と思ったのだろう。

 

三世次はおさちを妻に迎えるのだが、その後の動向が少し奇妙なのだ。

 

おさちが三世次に姿見を見せる直前、お茶を淹れたのを見て三世次は「ひとつ屋根の下で暮らすようになって百日近いが、お茶を淹れてくれたのはこれが初めてだな」というようなことを言う。「やっとその気になったのだな」というようなことも言っている。

三世次はこれまでお光/おさちへの情欲を度々観客に吐露していたのだが、この時三世次は夫婦となったにもかかわらず、合意を得てないという理由でおさちには三ヶ月以上まったく手を出していないのである。

お光には強姦を試みたあの男が?

 

そこにはきっと三世次の心境の変化があったのだろう。

 

この記事の序盤で、三世次は自分を愛してくれる存在を求めているのだろうと書いた。三世次はお光/おさちに自分を愛してほしいと望み、彼女(ら)の愛を求めた。

三世次はお光の体を手に入れるのだが、彼はお光の死体を犯したとき、自分が求めているのは体のつながりではないと気づいたのではないだろうか。

 

三世次が求めているのは、家族のように、自分を愛してくれる存在だ。

だからおさちには無理に手を出さなかった。自分を殺さなかったおさちは自分に惚れたと信じていたし、三世次もまた、おさちを愛そうと頑張っていたのだろう。

 

三世次はおさちが自分を愛していないことを知って、ひどく動揺するのである。

おさち:あのときあなたを殺さなかったのは、あなたを好きになったからではないのです。殺す気なら殺せた――

三世次:嘘をつけ!

おさち:あなたの下手人には金輪際なりたくなかった。あなたは殺す値打もない。

三世次:……お、おさち。

もう三世次はことばを上手く扱うことができない。

そして姿見の中に自分の罪を見て、罪の意識に打ちのめされる。*5

おさちは鏡の破片で自殺するのだがこのとき、三世次がおさちの死体に駆け寄ろうとする、というト書きがあるのが泣ける。三世次はおさちを愛していたのだろうな……

 

 

鏡と抱え百姓:自己嫌悪

三世次は自分のことが嫌いなのだろう、と先に述べた。

しかし彼は価値観を揺るがし、権力を、女を手に入れることで、その巨大な自己嫌悪を少しずつ減らしていった。

だが、愛していたおさちに自分の罪を突きつけられ、結局三世次は鏡の中の自分も、かつての自分である抱え百姓も殺してしまう。

 

自己嫌悪はもう、取り返しようもなく膨らんでしまった。

 

 

三世次の最期、羽根の生えた馬

佐渡の三世次の元ネタの一つであるシェイクスピアのリチャード三世は、戦場で追い詰められた最期に「馬だ! 馬をくれ! 代わりに王国をやるぞ!(A horse! A horse! My kingdom for a horse!)」と言う。

三世次もまた、「馬だ! 馬を持ってこい! ここから、いや、この世から抜け出すには馬が、それも羽根の生えた馬が要るんだ! 持ってきてくれた者にはなにもかもやるぜ。馬だ! 天馬だ!」と言う。

 

三世次がこれまでの悪行を犯したのは、低い身分と不出来な体が原因だ。三世次は片足が不自由なのだが、乗っていける馬があれば……つまり健常な体があれば、こんな悲劇も生まれなかっただろうか。

 

また、なぜただの馬でなく天馬なのだろうか?

ここで思い出したのは、お光と恋に落ちたときの王次だった。

王次は「恋の翼」でお光の元まで飛んでいった。

 

お光と愛で結ばれた王次は、「恋の翼」で飛んだ。

お光の愛もおさちの愛も得られなかった三世次は、「羽根の生えた馬」を手に入れられず、屋根から転がり落ちて死んだ。

 

えげつない対比だ……

 

さらに2020年版の舞台では(戯曲とちがって)、三世次は王次が恋の翼で飛ぶのを見ているのである。対比のえげつなさに拍車がかかる。演出の藤田俊太郎氏は人の心が無いのか。(あります*6

 

 

佐渡の三世次は生まれついての極悪人ではなく、ただ愛を求めた、生きようとした男なんだろうなあ……

 

 

最後の場面で、みんなと同じように三角巾をつけている三世次を見るとホロリ……となる。

三世次〜〜(涙)

 

 

おわりに

そんなこんなでとても良い舞台、戯曲でございました。

円盤買うぞ〜〜!

 

 

 

*1:参考までに、私がこれまでに読んだことのあるシェイクスピア作品を挙げておく。これ以外の作品の要素は『天保〜』に出てきても認識できていない可能性が高い。

(2020年2月22日現在)

『ヘンリー六世第三部』

『リチャード三世』

『リチャード二世』

『ヘンリー五世』

『タイタス・アンドロニカス』

ロミオとジュリエット』※原作未読、1968年版映画のみ鑑賞

ハムレット

『オセロー』

リア王

マクベス

『間違いの喜劇』

恋の骨折り損

『夏の夜の夢』

『ペリクリーズ』

『シンベリン』※原作未読、2014年版映画のみ鑑賞

冬物語

テンペスト

*2:ここで言う「リチャード三世」とは実在の人物リチャード三世のことではなく、シェイクスピアによる戯曲『リチャード三世』の登場人物リチャードのことを指す。

なぜならウィリアム・シェイクスピアが仕えた女王エリザベス一世は、リチャード三世を倒しテューダー朝を始めたヘンリー七世の孫。その事情からシェイクスピアは、エリザベスの祖父の敵であったリチャード三世を史実よりも極悪人として脚色して戯曲を執筆したらしいので。

*3:石川島には江戸時代に無宿人の収容所があったらしい。

*4:実際はおさちをお光だと勘違いしているだけなのだが……

*5:2020年版舞台は、このとき死んでいった者が亡霊のように現れる演出が『リチャード三世』を思い起こさせて楽しかった。

*6:最高の演出をありがとうございました。